プロヴィンツィヤ
プロヴィンツィヤ(ロシア語: Провинция)は帝政ロシアにおいて1719年から1775年にかけて用いられていた行政単位である[1]。プロヴィンツィヤに対し、日本語文献では「地区」の訳語を当てるものがある[2][3]。
プロヴィンツィヤは1719年5月29日にピョートル1世によって公布・施行された。当時帝政ロシアは9のグベールニヤ(県)に区分されていたが、この県の下位区分としてプロヴィンツィヤが設置された。1720年までには11県となり、プロヴィンツィヤの総数は45(後に50)となった[2][1]。また、1719年にはスウェーデンの制度を手本として、プロヴィンツィヤの下位区分にジストリクト(ru)(管区[2][4])が設置され、ゼムスキー・コミッサール(ru)(地方監察官)を地方貴族から選出する制度も敷かれたが[2]、1727年にはジストリクトはウエズド(郡[5][6])に改組された。
1775年11月7日にプロヴィンツィヤの廃止が決定され、1780年代までに各県内のプロヴィンツィヤの改組が完了した。
なお、プロヴィンツィヤの語源はラテン語のprovinciaであり、現代ロシア語では、古代ローマの属州や、現代の各国の上位行政区(国の直下の行政区分)に対し、プロヴィンツィヤの訳語が当てられているものがある[7][8]。具体的には中国の省、タイのチャンワット、イラク等のムハーファザ、あるいは各国のプロヴィンス(英語: province)などである。ジストリクトもまた、ディストリクト(英語: district)に対応し、現代ロシア語でアメリカ・イギリス等における選挙区・裁判区等の区分名として用いられている[4]。
出典
編集- ^ a b ПРОВИНЦИЯ // Российская государственность в терминах. IX – начало XX века
- ^ a b c d 田中陽兒、倉持俊一、和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史 2 -18世紀~19世紀-』山川出版社、1994年、P29
- ^ 栗生沢猛夫 『図説 ロシアの歴史』 河出書房新社、2010年。P77
- ^ a b 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、P203
- ^ 田中陽兒、倉持俊一、和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀~17世紀-』山川出版社、1994年、P315
- ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、P1161
- ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、P845
- ^ ПРОВИНЦИЯ // Словарь иностранных слов русского языка