ブダシリ (忠順王)
ブダシリ(ラテン文字化:Budaširi、中国語: 卜答失里、? - 1439年)は、チンギス・カンの次男のチャガタイの子孫で、哈密衛(ハミル)の統治者。先々代のハミル王トクトの息子。『明実録』などの漢字表記は卜答失里。
概要
編集先代のハミル統治者メンリ・テムルは宣徳元年(1426年)に亡くなった。即位したばかりの宣徳帝は先代君主トクトが元々「忠順王」であったこと、またトクトの息子のブダシリが成長していることを考慮し、ブダシリを哈密忠順王に封じることを通達した[1]。
しかし、宣徳3年(1428年)にはブダシリがまだ幼いという理由から、明朝は使者を派遣してメンリ・テムルの息子のトゴン・テムルを「忠義王」に任じた[2]。これ以後、ハミルには「忠順王」と「忠義王」が並び立つこととなる[3]。
その後もブダシリは定期的に明朝への朝貢を続けていたが、正統4年(1439年)に亡くなった。ブダシリの死後、忠順王位は息子のハリール・スルタンに引き継がれた[4]。
哈密衛君主
編集- 哈梅里王グナシリ(Unaširi,兀納失里/Kūnāshīrīکوناشیری):在位1380年-1393年
- 忠順王エンケ・テムル(Engke Temür,安克帖木児/Anka tīmūrانکه تیمور):在位1393年-1405年
- 忠順王トクト(Toqto,脱脱):1405年3月-1411年3月
- 忠義王メンリ・テムル(Mengli Temür,免力帖木児/Manglī tīmūr bāīrīمنگلی تیمور بایری):在位1411年3月-1425年12月
- 忠順王ブダシリ(Budaširi,卜答失里):1425年12月-1439年12月
- 忠義王トゴン・テムル(Toγon Temür,脱歓帖木児):1427年9月-1437年11月
- 忠義王トクトア・テムル(Toqto'a Temür,脱脱塔木児):1437年11月-1439年
- 忠順王ハリール・スルタン(Khalīl Sulṭān,哈力鎖魯檀):1439年12月-1457年8月
- 忠順王ブレゲ(Bürege,卜列革):1457年9月-1460年3月
- 忠順王バグ・テムル(Baγ Temür,把塔木児):1466年-1472年11月
- 忠順王ハンシン(Qanšin,罕慎):1472年11月-1488年
- 忠順王エンケ・ボラト(Engke Bolad,奄克孛剌):1488年-1497年12月
- 忠順王シャンバ(Šamba,陝巴):1492年2月-1493年4月、1497年12月-1505年10月
- 忠順王バヤジット(Beyazıt,拝牙即):1505年10月-1513年8月
脚注
編集- ^ 『明宣宗実録』巻13, 宣徳元年正月庚戌条「遣使祭遣使祭故哈密忠義王免力帖木児、仍命其姪卜答失里嗣封忠順王。先是、上諭行在礼部臣曰、哈密受皇祖厚恩、封為王、而能恭修臣職。今既死、宜有継承。然免力帖木児初承其兄忠順王脱脱、今脱脱子卜答失里亦長。宜仍立為忠順王、守其地。賜以綺帛、其諸臣亦皆賜賚。復賜詔諭之曰……」
- ^ 『明宣宗実録』巻35, 宣徳三年正月庚寅条「以哈密忠順王卜答失里尚幼未能勝事、遣使立故忠義王免力帖木児之子脱歓帖木児嗣為忠義王、俾同忠順王綏撫部属……」
- ^ 『明史』巻329西域1,「[宣徳]三年以卜答失里年幼、命脱歓帖木児嗣忠義王、同理国事。自是、二王並貢、歳或三四至、奏求婚娶礼市、命悉予之」
- ^ 『明英宗実録』巻62, 正統四年十二月戊寅条「……故哈密忠順王卜答失里男哈力鎖魯檀為忠順王。賜勅諭之曰、比聞、爾父忠順王卜答失里已卒。哈密軍民無所統属、茲特遣使齎勅命、爾哈力鎖魯檀承襲父爵……」
参考文献
編集- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 永元壽典「明初の哈密王家について : 成祖のコムル経営」 『東洋史研究』第22巻、1963年
- 松村潤「明代哈密王家の起原」『東洋学報』39巻4号、1957年