フローラ・ハリス
フローラ・リディア・ベスト・ハリス(英: Flora Lydia Best Harris、1850年3月14日 - 1909年9月7日[1])は、アメリカ合衆国のメソジスト派の宣教師[1][2]、詩人[3]。明治期の日本での伝道において、女子教育機関の必要性を訴え[4]、北海道函館市の遺愛学院(遺愛女子中学校・高等学校)設立の基礎を築き上げた[5][6]。夫は同じく宣教師のメリマン・ハリス。
フローラ・リディア・ベスト・ハリス Flora Lydia Best Harris | |
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個人情報 | |
出生 |
1850年3月14日 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ミードビル |
死去 |
1909年9月7日(59歳没) 日本 東京都 |
墓所 | 日本 東京都港区 青山霊園 |
教派・教会名 | メソジスト派 |
居住地 |
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州 → 日本 北海道函館区 → 東京府 |
配偶者 | メリマン・ハリス |
職業 | 宣教師 |
出身校 |
アービング女子大学 アレゲニー大学 |
伝道 | 日本 |
栄誉 | 従三位 |
経歴
編集誕生 - 結婚、日本へ
編集ペンシルベニア州ミードビルで誕生した[7]。祖父の代より熱心なキリスト教徒の家庭であり、嬰児の頃に受洗した[8]。幼少時より文学を愛し、特にヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩を愛好した[1]。
アービング女子大学とアレゲニー大学の卒業を経て[7][9]、1873年10月にメリマン・ハリスと結婚[10][11]。ハリスが宣教師として日本派遣を任命され[6][10]、夫妻共に宣教師として日本へ発った[12]。
北海道での活動
編集1874年(明治7年)、夫妻は函館に赴任した[12]。当時の函館は、禁教令(キリスト教禁止令)廃止直後であり、宣教師にとって安全な地とは言い難かった[13]。国外から函館を訪れた者には、家の扉を固く閉ざして日本人を拒む者もいた[13]。しかしフローラは夫メルマンと共に、快く日本人を家へ迎え入れた[13]。友人となったドイツの船長から、護身用にピストルを渡されたが、「私たちが日本に来たのは護身のためではなく、愛を伝えるため」といって、そのピストルを海に沈めたという逸話もあった[13][14]。
ハリスの伝道の一方で、フローラは婦人会を作り、西洋の日常生活を函館に伝えた[15]。同1874年には女子教育のために、私塾「日日学校」を民家に設立した[16][17]。
やがてフローラは、当時の函館に女子教育の仕組みが無いことを憂慮して[14]、1878年に婦人外国伝道協会機関紙「ウーマンズ・フレンド」に「日本女子教育振興論」を著し、大きな反響を呼んだ[1]。フローラはこの記事で、函館での女学校設立の必要を説いており、これに共感したアメリカ公使夫人のカロライン・ライトの献金により、遺愛女学校の創設のきっかけとなった[15][18]。
函館において女子教育が開始された後、1880年に「日本女子職業論」を寄稿して、青山女子手芸学校の設立に尽力した。1882年、遺愛女学校の前身となるカロライン・ライト・メモリアル・スクールを函館元町に設立した[1]。
文学にも精通しており、詩や文章も多く残した[3]。1954年版の『讃美歌』343番もフローラの作詞である[3][19]。文学の古典も愛好しており、1881年に『土佐日記』を英訳、和歌も作るほどであった[1]。
札幌バンドの佐藤昌介、内村鑑三、新渡戸稲造たちの尊敬も集めた[3]、特に内村鑑三とは親交があり[19]、内村は自身の「僕が心底より尊敬するところの三恩人」の1人にフローラを挙げた[3][20]。
晩年 - 没後
編集1883年に病気による帰国を経て、1905年(明治38年)にも日本にわたり、青山学院校内に住んだ[1]。1909年(明治42年)9月7日に青山学院宣教師館で、脳脊髄炎により死去した[1][15]。最期のときには「函館に行かねば!」と叫んだと伝えられる[15]。同月に青山学院大講堂で葬儀が行われ、多くの弔問客が訪れた[1]。死に先駆けて1907年(明治40年)、従三位に叙せられた[15]。墓碑は生後10か月で早世した唯一の愛子と夫メリマンと共に、青山霊園の外人墓地にある[1][21]。
そのわずか後の同1909年11月3日[23]、フローラの勧めと献金が契機となり、神奈川県鎌倉にハリス記念鎌倉幼稚園が設立された[24][25]。これは鎌倉市の「鎌倉の景観重要建築物等」の指定第6号として認定されている[22][25]。
没後の2004年(平成16年)、フローラの「日日学校」設立から130年を記念した「創基130周年記念式典」が、函館の遺愛学院で行われた[26]。遺愛学院はそれまで、開校時の1882年(明治15年)が起点とされて創立記念式典が開催されていたが、同2004年からは開校の原点に戻る意味を込め、フローラの私塾開設が創立年に定められた[26]。
著作
編集- 『フローラ・ベスト・ハリス夫人詩集』新谷武四郎訳、1971年7月。 NCID BA42885440。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j 武内 1995, pp. 314–315
- ^ 朝日新聞社 1994, p. 1355
- ^ a b c d e 日本基督教団 1986, p. 1129
- ^ 「きょうの暦 1882年(明治15年)2月1日 遺愛学院前身の女学校が開校」『北海道新聞』北海道新聞社、2009年2月1日、渡桧朝刊、26面。
- ^ 押野友美「遺愛学院 創基140周年 刻んだ歴史 DVDに 3部構成 石川啄木の娘の写真も」『北海道新聞』2014年9月19日、館A夕刊、13面。
- ^ a b “M.C.ハリス、〜函館ゆかりの人物伝”. 函館市文化・スポーツ振興財団. p. 1. 2022年3月7日閲覧。
- ^ a b 山鹿 1995, pp. 178–179
- ^ 山鹿 1995, pp. 6–7
- ^ 大櫃敬史「新渡戸稲造の米国留学時代における農学研究に関する実証的研究:ジョンズ・ホプキンズ大学所蔵文書の分析を中心として」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』第101号、北海道大学大学院教育学研究科、2007年3月30日、55-67頁、doi:10.14943/b.edu.101.55、hdl:2115/20486、ISSN 13457543、NAID 120000955509。 p.57より
- ^ a b 山鹿 1995, pp. 26–27
- ^ 山鹿 1995, pp. 28–29
- ^ a b 山鹿 1995, p. 35
- ^ a b c d 福島 1985, pp. 20–21
- ^ a b 福島 1985, pp. 22–23
- ^ a b c d e “M.C.ハリス、〜函館ゆかりの人物伝”. 函館市文化・スポーツ振興財団. p. 2. 2022年3月7日閲覧。
- ^ 田中瑠衣子「夕なぎ 報道部から 2004.11.5」『北海道新聞』2004年11月5日、館B夕刊、18面。
- ^ 内田晶子「こども通信 遺愛学院本館も重文指定へ 正面に4本の丸い柱 現役校舎として使用」『北海道新聞』2004年11月6日、館D夕刊、16面。
- ^ 坂本智尚「北の至宝 道内の文化財を訪ねて 函館の遺愛学院・旧宣教師館と本館 醸し出す異国情緒」『毎日新聞』毎日新聞社、2013年12月15日、地方版 北海道、24面。
- ^ a b 朝日新聞社 1994, p. 1356
- ^ 山鹿 1995, pp. 188–189
- ^ 『番町教会百年史』日本基督教団番町教会、1986年11月、313頁。 NCID BN05836266。
- ^ a b “日本基督教団鎌倉教会付属 ハリス記念鎌倉幼稚園”. 鎌倉市 (1992年3月30日). 2022年3月7日閲覧。
- ^ 1910年(明治43年)とする資料もある[22]。
- ^ 森研四郎 (2012年7月10日). “My 鎌倉”. e-ざ鎌倉・ITタウン. NPO法人鎌倉シチズンネット. 2022年3月7日閲覧。
- ^ a b “新・建築探訪シリーズ :歴史的建造物探訪 No.11” (PDF). 一般社団法人 神奈川県建築士会. 2022年3月7日閲覧。
- ^ a b 「遺愛学院で創基130周年 卒業生ら1200人が祝う」『北海道新聞』2004年11月3日、函A朝刊、28面。
参考文献
編集- 武内博編著『来日西洋人名事典』(増補改訂普及版)日外アソシエーツ、1995年1月31日。ISBN 978-4-8169-1277-1。
- 日本基督教団『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年2月15日。 NCID BN0021591X。
- 福島恒雄『教育の森で祈った人々 北海道キリスト教教育小史』北海道キリスト教書店聖文舎、1985年7月5日。 NCID BN06667947。
- 朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年11月30日。ISBN 978-4-02-340052-8 。2022年3月5日閲覧。
- 山鹿旗之進 編『はりす夫人 伝記・F・L・B・ハリス』 上篇、大空社〈伝記叢書〉、1995年10月22日。ISBN 978-4-87236-481-1。