フリードリヒ・フランツ3世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)
フリードリヒ・フランツ3世(ドイツ語: Friedrich Franz III., 1851年3月19日 - 1897年4月10日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の大公(在位: 1883年 - 1897年)。フリードリヒ・フランツ2世の長男。
フリードリヒ・フランツ3世 Friedrich Franz III. | |
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メクレンブルク=シュヴェリーン大公 | |
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在位 | 1883年 - 1897年 |
出生 |
1851年3月19日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国、ルートヴィヒスルスト、ルートヴィヒスルスト宮殿 |
死去 |
1897年4月10日(46歳没) フランス共和国、カンヌ |
配偶者 | アナスタシア・ミハイロヴナ |
子女 |
アレクサンドリーネ フリードリヒ・フランツ4世 ツェツィーリエ |
家名 | メクレンブルク=シュヴェリーン家 |
父親 | フリードリヒ・フランツ2世 |
母親 | アウグステ・ロイス・ツー・ケストリッツ |
略歴
編集1851年3月19日、フリードリヒ・フランツ2世とその最初の妃であったアウグステ(ロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ63世の娘)の第1子としてルートヴィヒスルスト(メクレンブルク=フォアポンメルン州)で生まれた。全名はフリードリヒ・フランツ・パウル・ニコラウス・エルンスト・ハインリヒ(Friedrich Franz Paul Nikolaus Ernst Heinrich)。異母弟にオランダ女王ウィルヘルミナの王配であるハインリヒ(オランダ語名: ヘンドリック)がいる。
フリードリヒ・フランツは幼い頃から喘息と重度の呼吸困難に悩まされていた。彼はヨーロッパ北部には住むことができず、代わりに穏やかな気候が彼に適した地中海沿岸で暮らした。彼の同性愛は公然の秘密だった[1]。
フリードリヒ・フランツ3世は1897年4月10日に療養先のカンヌで死去した。その死は当初橋の欄干から身を投げて自殺したと報じられていたため、謎に包まれている[2]。しかし、フリードリヒ・フランツ3世の死に関する公式報告によると、彼は庭にいるときに呼吸困難を感じ、よろめいて低い壁から落ちたという[3]。大公位は長男のフリードリヒ・フランツ4世が嗣いだが、まだ幼かったため1894年から摂政となっていた同母弟ヨハン・アルブレヒトが引き続き政務を執った。
結婚と子女
編集1879年1月24日にサンクトペテルブルクでロシアのミハイル・ニコラエヴィチ大公(ロシア皇帝ニコライ1世の皇子)の娘で又従妹のアナスタシア・ミハイロヴナ[注釈 1]と結婚した。結婚生活は不幸なものだったが、二人の間には1男2女が生まれた。
脚注
編集注釈
編集- ^ アナスタシアの祖母アレクサンドラ・フョードロヴナとフリードリヒ・フランツの祖母アレクサンドリーネが姉妹。
出典
編集- ^ Bernd-Ulrich Hergemöller, Mann für Mann, pages 253
- ^ “The Grand Duke of Mecklenburg-Schwerin Shown to Have Committed Suicide”. New York Times. (1897年4月13日) 2007年10月23日閲覧。
- ^ “The Grand Duke of Mecklenburg Schwerin Did Not Commit Suicide”. New York Times. (1897年4月15日) 2007年10月23日閲覧。
外部リンク
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