フリアン・ルエテ・ムニエサJulián Ruete Muniesa1987年1月29日 - 1939年3月15日)は、スペインマドリード出身の元サッカー選手、サッカー指導者、審判。ポジションはミッドフィールダー。また、アトレティコ・マドリードの会長やスペインサッカー連盟の会長なども務めるなど、スペインサッカー界の発展に尽くした。

フリアン・ルエテ
名前
本名 フリアン・ルエテ・ムニエサ
Julián Ruete Muniesa
ラテン文字 Julián Ruete
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1887-01-29) 1887年1月29日
出身地 マドリード
没年月日 (1939-03-15) 1939年3月15日(52歳没)
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1904-1908 スペインの旗 レアル・マドリード
1908-1909 スペインの旗 アスレティック・ビルバオ
1909-1910 スペインの旗 レアル・マドリード
1910-1911 スペインの旗 アスレティック・ビルバオ
1911-1912 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
監督歴
1921-1922 スペインの旗 スペイン代表
1922 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
1927-1928 スペインの旗 アトレティコ・マドリード
1930-1931 スペインの旗 カステリョン
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

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1887年、マドリードに生まれ、その後生涯に渡ってマドリードのみならずスペインサッカーの発展に寄与することになる。

1904年から1910年にかけて、レアル・マドリード (当時は"マドリードFC")にて選手、スタッフそして理事会の秘書などを務め、選手としてはMFの位置でプレーした[1][2]

1912年、アトレティコ・マドリードの会長に選出され、1919年までその職に就いた。会長としての功績には、カンポ・デ・オドネルの建設や当時傘下クラブとしての位置付けだったアスレティック・ビルバオからの完全な独立を推し進めた。1919年に退任以降、2年間の間会長職からは離れていたが、1921年に復帰し、2年間アトレティコ・マドリードの会長を務めた。この2年間では、マドリード地域リーグの優勝やエスタディオ・メトロポリターノ・デ・マドリード建設に携わった。

アトレティコ・マドリードで会長として働く傍ら、審判としても働き、スペイン審判協会の会長も務めた。また、同時期にスペインサッカー連盟の会長にも選ばれていた。1921年からは監督キャリアをスタートさせた。1921年から1922年に渡り、スペイン代表の指揮を執り、行われた4試合に全勝した。他にも古巣であるアトレティコ・マドリードCDカステリョンの監督を歴任した[2]

1939年3月にバルセロナで死去。

タイトル

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クラブ

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アスレティック・ビルバオ

脚注

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  1. ^ Página del Ayuntamiento de Ricla” (スペイン語). 2021年5月4日閲覧。
  2. ^ a b Historia del Atlético de Madrid

外部リンク

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