フランツィスカ・キンスキー

フランツィスカ・キンスキー・フォン・ヴヒニッツ・ウント・テッタウFranziska Kinsky von Wchinitz und Tettau, 1813年8月8日 - 1881年2月5日)は、リヒテンシュタインアロイス2世の妻。

フランツィスカ・キンスキー
Franziska Kinsky
リヒテンシュタイン公妃
リヒテンシュタイン公妃フランツィスカ、ヨーゼフ・クリーフーバー筆のリトグラフ、1831年
在位 1836年4月20日 - 1858年11月12日

全名 フランツィスカ・デ・パウラ・バルバラ・ロマーナ・ベルンハルダ
Franziska de Paula Barbara Romana Bernharda
出生 1813年8月8日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
死去 (1881-02-05) 1881年2月5日(67歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン
配偶者 アロイス2世
子女 一覧参照
家名 キンスキー家
父親 フランツ・デ・パウラ・キンスキー
母親 テレーゼ・フォン・ヴルブナ・ウント・フロイデンタール
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フランツ・デ・パウラ・キンスキー伯爵とその妻のヴルブナ・ウント・フロイデンタール伯爵夫人テレーゼの間の娘として生まれ、1831年8月8日にウィーンにおいてアロイス2世と結婚した。公妃として、リヒテンシュタイン公国内に初めて孤児院を建設させている。夫との間には2男9女の11人の子女をもうけた。

子女

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参考文献

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  • Centre d'Études des Dynasties Royales Européenes.