フランク・ハーバート・ジョンソン(Frank Herbert Johnson[1]1942年7月22日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州エルパソ出身の元プロ野球選手三塁手一塁手外野手)。右投右打。

フランク・ジョンソン
Frank Johnson
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州エルパソ
生年月日 (1942-07-22) 1942年7月22日
身長
体重
186 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手外野手
プロ入り 1961年
初出場 MLB / 1966年9月7日
NPB / 1972年4月8日
最終出場 MLB / 1971年6月12日
NPB / 1972年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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アメリカ合衆国テキサス州エルパソで生まれ、ベルエア高校英語版を経て、1961年から米マイナーリーグでプレー。

1966年サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下AAA級のフェニックス・ジャイアンツ英語版打率.308、15本塁打を打って、初めてメジャーに昇格し、終盤の15試合に出場する。1968年は67試合に出場するも、投手優位の年であったこともあり、打率.190、1本塁打に終わる。1970年はAAA級フェニックスで打率.353を打つと、さらにメジャーでも67試合に出場し、打率.273、31打点のキャリアハイを記録した。

1972年春のキャンプでNPBロッテ・オリオンズからジャイアンツに野球留学のために渡米していた浜浦徹に、ジャイアンツ首脳陣が目を付けてロッテに譲渡を打診する。ロッテ側は交換トレードなら応じると回答したことから、ジョンソン対浜浦の史上初となる日米間のトレードが成立した。当時は、日米間のトレードに関する取り決めがなかったことから、2選手を一度、自由契約とし改めて契約する形にしたという。なお、ジョンソンに関しては、どのような選手かロッテ側にほとんど情報がなかったとされる[2]

ロッテでは、ヤクルトに放出したアルト・ロペスの後釜として期待されたが、パワー不足が目立った上に、肝心の打率も伸びず、打率.232、13本塁打の平凡な成績に終わり、1年で退団した[3]

アメリカへ帰国後は、AAA級フェニックス・ジャイアンツやハワイ・アイランダーズ英語版でプレーし、1975年限りで引退した。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1966 SFG 15 35 32 2 7 0 0 0 7 0 0 1 1 0 2 0 0 7 0 .219 .265 .219 .483
1967 8 11 10 3 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 2 1 .300 .364 .300 .664
1968 67 188 174 11 33 2 0 1 38 7 1 0 1 0 12 2 1 23 3 .190 .246 .218 .464
1969 7 10 10 2 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .100 .100 .100 .200
1970 67 184 161 25 44 1 2 3 58 31 1 1 2 0 19 3 2 18 12 .273 .357 .360 .717
1971 32 53 49 4 4 1 0 0 5 5 0 0 0 1 3 0 0 9 1 .082 .132 .102 .234
1972 ロッテ 101 340 298 31 69 8 0 13 116 39 2 8 2 4 34 0 2 60 7 .232 .314 .389 .704
MLB:6年 196 481 436 47 92 4 2 4 112 43 2 2 4 1 37 5 3 60 18 .211 .277 .257 .537
NPB:1年 101 340 298 31 69 8 0 13 116 39 2 8 2 4 34 0 2 60 7 .232 .314 .389 .704

記録

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NPB

背番号

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  • 3 (1972年)

脚注

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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