フェルディナント・アルブレヒト2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)
フェルディナント・アルブレヒト2世(ドイツ語: Ferdinand Albrecht II., 1680年5月29日 - 1735年9月13日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の一人で、ベーヴェルン公(在位:1687年 - 1735年)。オーストリアの軍人として活躍し、最晩年の1735年にヴォルフェンビュッテル侯になった。
フェルディナント・アルブレヒト2世 Ferdinand Albrecht II. | |
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ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 | |
在位 | 1687年 - 1735年 |
出生 |
1680年5月29日 |
死去 |
1735年9月13日(55歳没) |
配偶者 | アントイネッテ・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家 |
父親 | ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公フェルディナント・アルブレヒト1世 |
母親 | クリスティーネ・フォン・ヘッセン=エシュヴェーゲ |
生涯
編集ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公フェルディナント・アルブレヒト1世の四男として生まれた。
スペイン継承戦争では神聖ローマ皇帝レオポルト1世側に就いて戦った。1704年に皇帝の副官に任じられ、1707年には少将に、1711年には准元帥となった。1716年から1718年の対オスマン帝国戦争では、オイゲン公の下でベオグラード包囲戦やペーターヴァルダインの戦いに参戦し、コマールノ(現スロバキアの町)の要塞の司令官を務めた。1733年には元帥となった。
従兄で舅でもあるルートヴィヒ・ルドルフが1735年3月に死去すると、フェルディナント・アルブレヒトはヴォルフェンビュッテル公国を相続し、元帥の職を辞したが、6か月後に自身も死去、ヴォルフェンビュッテルは長男のカール1世が、ベーヴェルンは弟のエルンスト・フェルディナントが相続した。
子女
編集1712年に、従兄であるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルドルフの娘アントイネッテ・アマーリエと結婚した。2人の間の子供は次の通り。
- カール1世(1713年 - 1780年) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公
- アントン・ウルリヒ(1714年 - 1774年) - アンナ・レオポルドヴナと結婚、ロシア皇帝イヴァン6世の父
- エリーザベト・クリスティーネ(1715年 - 1797年) - プロイセン王フリードリヒ2世と結婚
- ルートヴィヒ・エルンスト(1718年 - 1788年) - ネーデルラント連邦共和国元帥
- アウグスト(1719年 - 1720年)
- フリーデリケ(1719年 - 1772年)
- フェルディナント(1721年 - 1792年)
- ルイーゼ・アマーリエ(1722年 - 1780年) - プロイセン王子アウグスト・ヴィルヘルムと結婚、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の母。
- ゾフィー・アントイネッテ(1724年 - 1802年) - ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト・フリードリヒと結婚、フランツ(ザクセン=コーブルク=ゴータ家の祖)の母。
- アルブレヒト(1725年 - 1745年) - ゾーアの戦いで戦死
- シャルロッテ(1725年 - 1766年)
- テレーゼ(1728年 - 1778年)
- ユリアーネ・マリー(1724年 - 1796年) - デンマーク・ノルウェー王フレデリク5世と結婚
- フリードリヒ・ヴィルヘルム(1731年 - 1732年)
- フリードリヒ・フランツ(1732年 - 1758年) - ホッホキルヒの戦いで戦死
爵位・家督 | ||
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先代 フェルディナント・アルブレヒト1世 |
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公 1687年 - 1735年 |
次代 エルンスト・フェルディナント |
先代 ルートヴィヒ・ルドルフ |
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯 1735年 |
次代 カール1世 |