フィリベール・ド・シャロン
フィリベール・ド・シャロン(フランス語:Philibert de Chalon, 1502年3月18日 - 1530年8月3日)は、シャロン家出身の最後のオランジュ公(在位:1502年 - 1530年)。
フィリベール・ド・シャロン Philibert de Chalon | |
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オランジュ公 | |
在位 | 1502年 - 1530年 |
出生 |
1502年3月18日 ノズロワ |
死去 |
1530年8月3日(28歳没) フィレンツェ郊外 |
家名 | シャロン=アルレ家 |
父親 | ジャン4世・ド・シャロン=アルレ |
母親 | フィリベルト・ド・リュクサンブール |
生涯
編集フィリベールはノズロワでジャン4世・ド・シャロン=アルレの子として生まれ、イタリアで皇帝カール5世の指揮官としてコニャック同盟戦争で戦った。ローマ劫掠に参加し[1]、フィレンツェ包囲戦(1530年)の最終段階で戦死した[2]。包囲戦中にカール5世との間で交わされた手紙が現存する。
イヴレーア家(アンスカリ家)の最後の男系子孫として1530年に死去し、オランジュ公の地位は姉クロードの息子、ルネ・ド・シャロンに引き継がれ、オラニエ=ナッサウ家が創設された。
脚注
編集- ^ Pitts 1993, pp. 350–351.
- ^ Fletcher 2016, p. 61.
参考文献
編集- Fletcher, Catherine (2016). The Black Prince of Florence: The Spectacular Life and Treacherous World of Alessandro de' Medici. Oxford University Press
- Pitts, Vincent Joseph (1993). The man who sacked Rome: Charles de Bourbon, constable of France (1490–1527). P. Lang
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