フアン・マリーア・ボルダベリー

ウルグアイ大統領

フアン・マリーア・ボルダベリー・アロセナスペイン語: Juan María Bordaberry Arocena1928年6月17日 - 2011年7月17日)は、ウルグアイ政治家。同国大統領バスク系ウルグアイ人[1]

フアン・マリーア・ボルダベリー
Juan María Bordaberry

フアン・マリーア・ボルダベリー(1972年撮影)

任期 1972年3月1日1973年6月27日
(1973年6月27日から1976年6月12日まで軍事政権[注釈 1]
副大統領 ホルヘ・サペリ英語版

任期 1969年1972年
大統領 ホルヘ・パチェコ・アレコ

任期 1963年1965年

出生 1928年6月17日
ウルグアイの旗 ウルグアイ モンテビデオ
死去 (2011-07-17) 2011年7月17日(83歳没)
ウルグアイの旗 ウルグアイ モンテビデオ
政党 国民党1963年 - 1965年
コロラド党1969年以降)
配偶者 ホセフィーナ・ヘラン
子女
宗教 キリスト教カトリック

経歴

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コロラド党バッジェ主義者の家庭に生まれる。父・ドミンゴ・ボルダベリー英語版は弁護士、牧場の大地主で上院議員も務めた。当初は国民党で政治活動を行っていた。1962年に上院議員に就任[2]。1967年にコロラド党に入党し、その後ホルヘ・パチェコ・アレコ政権下では農牧業大臣を務めた。1971年の大統領選挙で国民党のウィルソン・フェレイラ・アルドゥナテ英語版を破り、1972年に第34代大統領に就任した。

クーデター

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1950年代からの一次産品輸出の不振と工業化のいきづまりから、失業者の増大など社会不安の増していたウルグアイでは、1960年代よりツパマロスと呼ばれる都市ゲリラが政府要人の誘拐や外国企業の襲撃を繰り返していた。1971年には左派連合「拡大戦線」が選挙で大きく票を獲得し、旧来の二大政党制を大きく脅かすと、ツパマロスの活動はいよいよ過激化していった。

大統領に就任したボルダベリーは4月15日には内戦状態を宣言し、軍隊の大量投入に踏み切った。この決断は功を奏しツパマロスは掃討されたものの、軍部の介入は留まることを知らず、1973年2月には陸・海・空軍の総司令官をメンバーに含む国家安全保障審議会が設置された。軍の政治介入を制度的に保証するこの決断に議会は反発した。ボルダベリーは1973年6月27日、軍の支持を背景に国会と地方議会を閉鎖し、民主的体制を停止させた[3]。しかしその後、1976年に全政党の廃止と協同組合による統治を提案したことでその急進性を懸念した軍事政権によって大統領の座を追われた[4]。その後は牧場の経営に戻った。

裁判と死

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2006年12月20日、ボルダベリーは人権侵害の容疑で逮捕された。2007年には健康問題を理由に自宅軟禁となったが、翌年には年金の支給を停止された。2010年3月5日、ボルダベリーは憲法違反、9件の失踪事件および2件の殺人の咎で禁錮30年の判決を下された[5]

しかし、収監されることはなく翌2011年にモンテビデオの自宅で死去した。

注釈

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  1. ^ 軍事政権自体は1985年3月1日まで継続。

脚注

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  1. ^ Bordaberry - Oyhamburu Vascos Uruguay.gonarin.com
  2. ^ Juan María Bordaberry Arocena Biografiasyvidas.com
  3. ^ 増田、p.440
  4. ^ [1][リンク切れ]
  5. ^ Muere el exdictador uruguayo Juan María Bordaberry Finanzas.com, 2011年7月17日

参考文献

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増田義郎編『各国世界史26 ラテン・アメリカ史II 南アメリカ』山川出版社、2000年

先代
ホルヘ・パチェコ・アレコ
ウルグアイ東方共和国大統領
第34代 : 1972年 - 1973年
次代
フリオ・マリア・サンギネッティ
先代
政権樹立
軍事政権下の大統領
初代 : 1973年 - 1976年
次代
アルベルト・デミチェリ英語版