ファビアン・ツー・ドーナ=シュロディエン
ファビアン・ブルクグラーフ・ウント・グラーフ・ツー・ドーナ=シュロディエン(Fabian Burggraf und Graf zu Dohna-Schlodien, 1802年8月5日 マルミッツ - 1871年5月4日 クンツェンドルフ・バイ・シュプロッタウ)は、ドイツ・プロイセン王国の貴族、地主、行政官。
地方行政官でマルミッツその他の領主だったファビアン・ツー・ドーナ=シュロディエン伯爵(1777年 - 1839年)と、その最初の妻の伯爵令嬢アマーリエ・フォン・コスポート(1780年 - 1834年)の間の長男。両親は彼の誕生の翌年に離婚、父はすぐに再婚し多くの子をもうけた[1]。ハイデルベルク大学で学び、1822年サクソ=ボルシア・ハイデルベルク友愛会に入会した[2]。学業を終えるとプロイセンの国家官僚となった。
1829年7月25日、ラティボジツェ城にてマリー・ヴィルゾーン・フォン・シュタイナハ(1805年 - 1893年)と結婚[3]。彼女は城の所有者ザーガン女公ヴィルヘルミーネの非嫡出の姪であった[4]。妻方の親族がザーガン侯領を所有しており、自身も侯領がその大部分を構成するシュレージエン州ザーガン郡のクンツェンドルフ・バイ・シュプロッタウ(現ポーランド・ルブシュ県ジャガン郡ヒヒ)及びニーダーキュッパー(同郡スタラー・コーペルニャ)の領主だった。1847年から1863年までザーガン郡の郡長を務めた[5]。
この他、宮中顧問官の称号も授けられた[2]。妻との間に2男2女があったが、結婚したのは長女ドロテア(1836年 - 1897年)だけだった。彼女の夫、後にプロイセン陸軍少将となる軍人オスカー・フォン・ディービッチュ(1823年 - 1906年[6])が、ファビアン夫妻の居館クンツェンドルフ城を相続し、1945年の赤軍占領までディービッチュ家が同城を所有した[7]。
引用・脚注
編集- ^ 異母弟たちのうち、アルフレート・ツー・ドーナ=マルミッツはプロイセン貴族院議員に、エミール・ツー・ドーナ=シュロディエンはプロイセン陸軍中将になった。
- ^ a b Kösener Korpslisten 1910, 120, 29
- ^ Paul Theroff. “DOHNA”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2019年12月30日閲覧。
- ^ ザーガン女公の最初の夫ジュール=アルマン=ルイ・ド・ロアン公子と、女公の妹のホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯夫人パウリーネの不倫関係で生まれた婚外子で、1822年ザクセン王国政府により貴族に叙爵されていた。
- ^ Landkreis Sprottau Verwaltungsgeschichte und Landratsliste auf der Website territorial.de (Rolf Jehke)
- ^ Genealogisches Handbuch des Adels. Band A XII, S. 124, 125, C.A. Starke-Verlag, Limburg 1973.
- ^ Historia Chich i Pałacu
外部リンク
編集- Fabian Burggraf zu Dohna-Schlodien, auf Nieder-Küpper und Kunzendorf auf www.schlossarchiv.de