ピョートル・ポスペーロフ
ピョートル・ニコラーエヴィチ・ポスペーロフ (ロシア語: Пётр Николаевич Поспелов、1898年6月20日 - 1979年4月22日)は、ソビエト連邦共産党の幹部(1916年来の古参ボリシェヴィキ)、ソ連科学アカデミーの学者 (1953年)、『プラウダ』編集長、マルクス・レーニン主義研究所の所長である。厳格なスターリン主義者として知られていたが、党内闘争時に即座にニキータ・フルシチョフの支持者になったことで政界を生き残った[1]。
ピョートル・ポスペーロフ Пётр Поспелов | |
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1983年に発行された記念切手 | |
生年月日 | 1898年6月20日 |
出生地 | ロシア帝国、コナコヴォ |
没年月日 | 1979年4月22日 (80歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
出身校 | 赤色教授研究所 |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
在任期間 | 1949年7月7日 - 1952年7月 |
在任期間 | 1961年1月25日 - 1967年5月 |
プラウダ編集長 | |
在任期間 | 1940年 - 1949年 |
第20-21期政治局員候補 | |
在任期間 | 1957年6月29日 - 1961年10月17日 |
第19期、第20-21期書記局員 | |
在任期間 | 1953年3月5日 - 1960年5月4日 |
生涯
編集1898年にコナコヴォで生まれ、1930年に赤色教授研究所の経済学部を卒業した[1]。共産党が公式に編纂した党史『ソビエト連邦共産党の歴史』の主要執筆者の一人であり、当書はスターリン時代の党史の基本的なテキストとなった[2]。
また、スターリン時代のソ連が行った大弾圧を調査する機関「ポスペーロフ委員会」の委員長としても知られており、その調査結果に基づいてフルシチョフは「秘密演説」すなわちスターリン批判を行った[3]。
1969年の共産党の理論誌『ボリシェヴィキ』の記事で、トロツキー主義者による「反レーニン主義」を挙げた挑戦に直面した際に党団結の砦としてスターリンを賞賛した。
「 | イデオロギー的にも政治的にも優良である他でもないI・V・スターリン率いるレーニン主義の党とその中央委員会が、一つの反レーニン主義の流れであるトロツキズムを打倒せしめたのは、全党をレーニン主義の教義の防衛に立ち上がらせたからこそ、トロツキスト共が望んでいた党の分裂が防止されたことにより結束は保たれ、共産党が我が国のソビエト人民を社会主義の勝利へと導いた。[4] | 」 |
褒章
編集脚注
編集出典
編集- ^ a b Pospelov's biography Archived 2009年4月30日, at the Wayback Machine. at khronos.ru
- ^ Banerji, Arup (2008). Writing History in the Soviet Union: Making the Past Work. New Delhi: Social Science Press. p. 145. ISBN 978-81-87358-37-4.
- ^ Michael Charlton (1992) "Footsteps from the Finland Station: Five Landmarks in the Collapse of Communism" ISBN 1-56000-019-8, Chapter 1: "Khrushchev's Secret Speech", pp. 7–80
- ^ Pospelov, Pyotr (1969). "Against Trotskyism". In Translations from Kommunist: No. 12, August 1969, pp. 54–72. Washington, D.C.: U. S. Joint Publications Research Service. Original in Kommunist No. 12 (August 1969), pp. 46–59.