ドメニコ・ピッツィガーノ (Domenico Pizzigano) とフランチェスコ・ピッツィガーノ (Francesco Pizzigano) の兄弟は、ピッツィガーノ兄弟、ないし、ピッツィガーニ兄弟イタリア語: Fratelli Pizzigani:姓が複数形)として知られた14世紀ヴェネツィア共和国地図製作者。古い資料では、姓は「z」がひとつだけの「Pizigano」とされている場合もある。

ピッツィガーノ兄弟による1367年海図(10 MB の拡大バージョン)

1367年の海図

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ピッツィガーノ兄弟は、おもに1367年に製作した羅針儀海図の製作で知られており、現在その実物はパルマビブリオテーカ・パラティーナ英語版が所蔵している (Ms.Parm.1612)。横 138cm、縦 92cm という図面は、当時としては最大の地図であった。

この地図の作者については、若干の論争がある。地図の縁に記された注記は、「MCCCLXVII. Hoc opus compoxuid franciscus pizigano veneciar et domnus pizigano In Venexia meffecit marcus die XII decembris.」通常の解釈では、これがドメニコ・ピッツィガーノとフランチェスコ・ピッツィガーノの兄弟への言及であるとしている。これとは異なる解釈の中には、フランチェスコはドメニコの兄弟ではなく息子だったのではないか、そしてドメニコは地図の完成時点で既に死去していたとするものや、domnus は(ドメニコのことではなく)聖職者の称号で、第二著者の名はマルコ (Marco, marcus) だとするもの、著者の名を記した部分をよく見ると rardus と記されているようでもあり、(ジェ)ラルダス ((Ge)rardus)、ジェラルド (Gerardo) である可能性があるとするもの、兄弟はフランチェスコ、ドメニコ、マルコ(ないしジェラルド)の3人だったとするものなどがある[1]20世紀になってツアン・ピッツィガーノ1424年の地図が発見されるまで、この兄弟の姓は「Pizigani」(複数形:z はひとつ)と綴られていたが、以降は z ふたつに改められるようになっている[2]

ピッツィガーノ兄弟の1367年羅針儀海図は、もっぱら地中海黒海の範囲にとどまっていた同時代の地図の範囲の先まで記載していたところに大きな特徴があり、大西洋の広範囲が描かれ、北方では、スカンジナビア半島バルト海カスピ海なども描かれていた。

 
1367年海図における、アフリカ沖の大西洋の島々。

1367年のピッツィガーノ兄弟の海図は、カナリア諸島について詳しい描写をしており、8つの島を描き、1339年アンジェリーノ・ドゥルチェルト英語版の海図以降に蓄積された知識を反映させている。また、空想上の島であるブラジル島英語版も、大洋の只中に、船やアラブの伝説上のドラゴンとともに描かれている。実在するカナリア諸島の北方に、ピッツィガーノ兄弟は空想上のフォルトゥーナ諸島英語版の島々を描き、修道像姿の聖ブレンダンが祝福するセント・ブレンダン島英語版も描かれている。ピッツィガーノ兄弟の地図は、謎めいたマム島英語版をアイルランドの南西に描いた最初の地図でもあった。

 
1367年の地図に描かれた、アンティリア島/ヘラクレス

かつて一部の歴史家たちは、15世紀羅針儀海図によって有名になった伝説上の島であるアンティリア島を最初に記載したのは1367年のピッツィガーノ兄弟の海図だと考えていた。地図の西端には島は記されておらず、何の言及もないが、手を広げた男性が書き添えられた円盤が描かれており、その添え書きには、ある解読によると「ここには、アトゥリアの前に (ante ripas Atulliae) 立像が並んでおり、船乗りたちの安全を祈っている。その先には航海が叶わない、忌まわしい海が広がっている」とある[3]。一部の学者は、特に19世紀には、ここで言われているアトゥリアが、アンティリア島への最初の言及例だと信じていたが (e.g. Buache, Kretschmer, Nordenskiöld)[4]、このような解釈は、その後疑わしいものとされた。Crone (1938) は、この部分を ante ripas Getuliae (Getulia) と読んだ[5]。Hennig (1945) 以降は、この記述は「at temps Arcules」ないし「ante templum Arcules」(「ヘラクレスの時代から」の意)と解されており[6]、ほぼ疑いなくヘラクレスの柱、すなわち古代の航海者にとっての non plus ultra(この先へ行けない)場所への言及だとされており、マスウーディーなどアラビア語の文献に見える「巨人王ヘラクレス」の「銅の偶像」が暗黒の緑の海の縁を示すという話や[7]イドリースィーが、海峡から離れた島々に目印の「偶像」を配したことが踏まえられている[8]

1367年の地図は、ヨーロッパ人が描写したものとしては初めて、伝説の「黄金の川」を西アフリカにはっきり描き込んだ最初期の地図のひとつである[9]。この川は、特にバクリーイドリースィーによって、「西ナイル川」としてアラビア語文献に言及されている。この西ナイルとされている川は、実際にはセネガル川ないしニジェール川であり、両者は繋がっており、黄金を産出するマリ帝国の中心部を流れているものと、長い間にわたって考えられていた。ピッツィガーノ兄弟は、この川を「パロルス (Palolus) 川」と呼び、その源を東方の「月の山脈」の山中の大きな湖とし、そこからエジプトナイル川も源を発しているとした[10]。ピッツィガーノ兄弟は、この川が西へ流れ、Caput finis Gozolaナン岬英語版)の南のどこかで大西洋に注ぐように表現した。ピッツィガーノ兄弟は、金鉱の場所を、彼らが「パローラ (Palola) 島」と呼んだ中州としたが、おそらくこれはビュレ (Buré) 金鉱のことで、ニジェール川上流部の支流に囲まれた地区が、中州と誤認されたのであろう。

ピッツィガーノ兄弟の地図は、プレスター・ジョンの伝説についても言及しており、黄金が大量に産出するので、家の屋根を黄金で葺いたり、兵士の武器を黄金で鋳造するなどと記している[11]

その他の海図

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ビブリオテーカ・パラティーナが所蔵する1367年の海図 (Ms.Parm.1612) の他にも、ピッツィガーノ兄弟は4点の地図の製作に関わったと考えられている。

初めてアンティリア島をはっきりと描きこんだことで有名な1424年羅針儀海図を製作した、ヴェネツィア地図製作者ツアン・ピッツィガーノは、ドメニコとフランチェスコの縁者であったと考えられており、あるいはいずれかの息子であったのかもしれない[15]

脚注

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  1. ^ 詳細は、 Longhena (1907, 1927) を参照。
  2. ^ e.g. Astengo (2007)
  3. ^ as cited in Crone (1938: p.260)
  4. ^ Jean-Nicholas Buache (1806: p.25-26), Konrad Kretschmer (1892: 195-7), A.E. Nordenskiöld (1897: p.164).
  5. ^ Crone (1938). :ただし、クローン自身ものちの著書 (Crone, 1947) では、別の解釈をおこなっている。
  6. ^ Hennig (1945). この解釈は、 Crone (1947) が支持し、Armando Cortesão (1954 (1975) [1], p.106]) も支持した。
  7. ^ Beazley (1897, Vol. I p.465.
  8. ^ Crone (1938: p.262). :Crone (1937) は、15世紀海図においてヘラクレスの柱の位置が様々であったことを指摘している。Cortesão (1954 (1975):p.74) は、ヘラクレスの「立像」が安全な航海の限界の印とされることはアラブ人の海図で一般的に見受けられることであったと述べている。
  9. ^ 正式には、「黄金の川」を描き込んだ最初の例は、1351年メディチ・アトラス英語版とされるが、この地図の年代は非常に疑わしいものであり、ピッツィガーノ兄弟のものより後の時代のものである可能性もある。
  10. ^ Major (1868: p.112)
  11. ^ Russell (2000: p.122)
  12. ^ 参照:BNF citation. :この地図は、マリン・サヌード・イル・ヴェッキオ (Marin Sanudo il Vecchio) の著書『Liber Secretorum Fidelium Crucis』に収録されたシリアの地図の直接の複写である。Campbell (2011: Supp. A) を参照。
  13. ^ T. Fischer (1886: p.148-51)
  14. ^ a b Campbell (2011b: here)
  15. ^ Cortesão (1953, 1954)

参考文献

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  • Astengo, Corradino (2007) "The Renaissance chart tradition in the Mediterranean", in D. Woodward, editor, The History of Cartography, Vol. 3. Cartography in the European Renaissance. Chicago: University of Chicago Press.
  • Beazley, C.R. (1897) The Dawn of Modern Geography. London. vol. 1
  • Buache, Jean-Nicholas (1806) "Recherches sur l'île Antillia et sur l'époque de la découverte de l'AmériqueMémoires de l'Institut des Sciences, Lettres et Arts, Vol. 6, Paris: Baudoin, p.1-29
  • Campbell, T. (2011a) "Census of pre-sixteenth-century portolan charts: Corrections and updates" ( online, accessed 7 July 2011)
  • Campbell, T. (2011b) "Anonymous works and the question of their attribution to individual chartmakers or to their supposed workshops" (online, accessed 7 July 2011)
  • Cortesão, Armando (1953) "The North Atlantic Nautical Chart of 1424" Imago Mundi, Vol. 10. JSTOR
  • Cortesão, Armando (1954) The Nautical Chart of 1424 and the Early Discovery and Cartographical Representation of America. Coimbra and Minneapolis. (Portuguese trans. "A Carta Nautica de 1424", published in 1975, Esparsos, Coimbra. vol. 3)
  • Crone, C.R. (1937) "The Bianco Chart, 1448, and the 'Pillars of Hercules'", The Geographical Journal, Vol. 89 (5), p. 485-87.
  • Crone, G. R. (1938) "The Origin of the Name Antillia", The Geographical Journal, Vol. 91, No. 3 (Mar.), pp. 260–262
  • Crone, G.R. (1947) "The Pizigano Chart and the 'Pillars of Hercules'", The Geographical Journal, Apr–Jun, Vol.100, p. 278-9.
  • Fischer, Theobald (1886) Sammlung mittelalterlicher Welt- und Seekarten italienischen Ursprungsund aus italienischen Bibliotheken und Archiven Venice: F. Ongania. online
  • Hennig, R. (1945) "Eine altes Rätsel der Pizigano-Karte gelöst" in Mitteilungen der geographischen Gesellschaft Wien, vol. 88, p. 53–56.
  • Kretschmer, Konrad (1892) Die Entdeckung Amerika's in ihrer Bedeutung für die Geschichte des Weltbildes. Berlin: Kühl. online
  • Longhena, M. (1907) "Atlanti e Carte Nautiche del Secolo XIV al XVII, conservati nella biblioteca e nell'archivio di Parma", Archivio Storico per le Provincie Parmensi, Vol. VII. offprint
  • Longhena, M. (1927) "La carta dei Fratelli Pizigano della Biblioteca Palatina di Parma", Atti del X Congresso Geographico Italino, Milan.
  • Major, R.H. (1868) The Life of Prince Henry, surnamed the Navigator. London: Asher & Co
  • Nordenskiöld, Adolf Erik (1897) Periplus: An Essay on the Early History of Charts and Sailing Directions, tr. Frances A. Bather, Stockholm: Norstedt.
  • Russell, Peter E. (2000) Prince Henry 'the Navigator': a life. New Haven, Conn: Yale University Press.