ピエール・ド・ブレゼ
ピエール(2世)・ド・ブレゼ(Pierre II de Brézé, 1412年 - 1465年7月16日)は、15世紀フランスの貴族。百年戦争で台頭しノルマンディー代官(セネシャル)を務めた。ピエール(1世)・ド・ブレゼの子。
1433年、フランス王国大元帥アルテュール・ド・リッシュモンと図り、フランス王シャルル7世の寵臣ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユを襲撃、殺害に至らなかったが宮廷から追放した[1]。シャルル7世に気に入られ新たに寵臣となり、行政手腕を買われ出世、王の愛人アニェス・ソレルと組んで宮廷を掌握した。これに反感を抱いたルイ王太子(後のルイ11世)により1446年に暗殺されかけたが、失敗した王太子が領地ドーフィネへ逃亡する一幕もあった[2]。
傭兵としての側面も持ち、しばしばフランス国内で徒党を組んで略奪に及んでいたが、1450年にはリッシュモンに従いフォルミニーの戦いで右翼を任され、イングランド軍を撃破した[3]。1461年にシャルル7世が亡くなりルイ11世が即位すると一時投獄されるが、釈放されてから彼に忠誠を尽くすようになり、薔薇戦争でルイ11世の従妹でイングランド王ヘンリー6世妃マーガレット・オブ・アンジューが1462年にフランスへ亡命、ルイ11世に援助を要請すると、王の命令で小規模ながら援軍を率いてスコットランドへ渡っている。ただし、一緒に渡海したマーガレットはエドワード4世にスコットランド国境付近の北イングランドの拠点を落とされ、翌1463年に再度フランスへ亡命を余儀無くされている[4]。
ブルゴーニュ公シャルルとルイ11世が対立すると、ルーアン代官職授与および息子ジャックと王の異母妹シャルロットの結婚でルイ11世に味方した。1465年、モンレリの戦いで王軍の前衛を率いてブルゴーニュ軍と戦ったが戦死した[5]。官職と所領は子孫に受け継がれ、息子夫婦の間に生まれた孫ルイは1515年にディアーヌ・ド・ポワチエと結婚した[6]。