ピエール・ウォメ
ピエール・ヌレンド・ウォメ(Pierre Nlend Womé, 1979年3月26日 - )は、カメルーン・ドゥアラ出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションは、左サイドバック及び左サイドハーフ。
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名前 | ||||||||||||||
本名 |
ピエール・ヌレンド・ウォメ Pierre Nlend Womé | |||||||||||||
ラテン文字 | Pierre Womé | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 |
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生年月日 | 1979年3月26日(45歳) | |||||||||||||
出身地 | ドゥアラ | |||||||||||||
身長 | 178cm | |||||||||||||
体重 | 78kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | DF / MF (左SB / 左SH) | |||||||||||||
利き足 | 左足 | |||||||||||||
ユース | ||||||||||||||
1993-1994 |
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1994-1996 |
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クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
1996-1997 |
![]() | 3 | (0) | |||||||||||
1997-1998 |
![]() | 24 | (2) | |||||||||||
1998-1999 |
![]() | 8 | (0) | |||||||||||
1999-2002 |
![]() | 47 | (3) | |||||||||||
2002-2003 |
![]() | 14 | (1) | |||||||||||
2003-2004 |
![]() | 23 | (1) | |||||||||||
2005 |
![]() | 16 | (3) | |||||||||||
2005-2006 |
![]() | 13 | (0) | |||||||||||
2006-2008 |
![]() | 28 | (2) | |||||||||||
2008-2010 |
![]() | 30 | (0) | |||||||||||
2010-2011 |
![]() | 17 | (0) | |||||||||||
2012 |
![]() | 2 | (0) | |||||||||||
2012-2014 |
![]() | 25 | (5) | |||||||||||
2014 |
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2014-2015 |
![]() | 21 | (0) | |||||||||||
2015-2016 |
![]() | 18 | (2) | |||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
2000 |
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1998-2012 |
![]() | 69 | (5) | |||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
編集クラブ
編集母国のフォガペ・ヤウンデとキャノン・ヤウンデの下部組織を経て、1996年夏にヴィチェンツァ・カルチョでプロキャリアを始め、2002年8月にイングランド1部のフラムFCへ移籍する[1]までの約7シーズンをイタリアで過ごした。ASローマに移籍金20億リラで加入し、1999年にはボローニャFCへ共同保有・移籍金60億リラで加入[2]。また、ボローニャからローマへフランチェスコ・アントニオーリ, アメデオ・マンゴーネ, アレッサンドロ・リナルディがそれぞれ100億リラ, 130億リラ, 60億リラで移籍した。その後、2000年6月にボローニャは僅か100万リラで買い取った。イングランドのフラムでは、2003年2月のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦(3-0)で移籍後初得点にして唯一となる得点を挙げた[3]。
フラム退団後はRCDエスパニョール、インテルナツィオナーレ・ミラノでプレーした後、ドイツのヴェルダー・ブレーメンへ移籍した。この結果、欧州の4大リーグ全てでプレーした史上5人目の選手となった(前例はフロリン・ラドチョウ、ゲオルゲ・ポペスク、アベル・シャヴィエル、ヨン・ダール・トマソン)。2008年夏に1.FCケルンに移籍し[4]、2010年6月30日に退団した。
2012年2月24日に母国のコトンスポール・ガルアに加入するも[5]、3月16日にキャノン・ヤウンデに4ヶ月の契約で移籍[6]。母国復帰の理由について、ロナウジーニョがやり直すためブラジルに復帰したのを見て、自身もその思いに駆られたと明かした[7]。
代表
編集2000年に行われたシドニーオリンピック決勝でのPK戦で5人目のキッカーとして成功し、金メダル獲得に貢献した。
2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選の最終節・エジプト戦は、この試合に勝利しなければ2006 FIFAワールドカップ出場を逃すという重要な試合だったが、1-1で迎えたロスタイムにPKを得るもポストに当てて外してしまった。これにサポーターが憤怒し、ヤウンデにあるウォメの自宅が襲われ、愛車ベンツが破壊された。たった1回のPK失敗が大騒動を引き起こした。(詳細についてはヤウンデの悲劇を参照)
それから数日後の記者会見で、"あの場面で会話はなかったが、サミュエル・エトオや主将のリゴベール・ソングですら、あのPKを蹴りたがらなかった。だが、自分はPKキッカーのリストに名を連ねていたから、あそこに向かった"と語り、またサポーターから身の危険を感じていることも明かした[8]。
2007年3月19日に代表引退を表明した[9]が、2009年7月の2010 FIFAワールドカップ・アフリカ予選で復帰[10]。それを最後に暫く遠ざかっていたが、2012年10月に久しぶりに招集された[10]。
脚注
編集- ^ "Fulham snap up Wome"
- ^ "BILANCIO D’ESERCIZIO E CONSOLIDATO DI GRUPPO AL 30 GIUGNO 2000"
- ^ "Fulham overpower Baggies"
- ^ "Wome seals Cologne move"
- ^ "Wome calls Coton Sport home"
- ^ "Football: Wome Officially Joins Canon"
- ^ "Pierre Wome Nlend: “Why I choose to return to Cameroon”."
- ^ "Wome reveals fears for his life "
- ^ "Wome quits Cameroon"
- ^ a b "Wome accepts Lions' recall"
外部リンク
編集- ピエール・ウォメ – FIFA主催大会成績 (英語)
- transfermarkt
- footballzz
- ピエール・ウォメ - National-Football-Teams.com