ビシャン・シング
ビシャン・シング(Bishan Singh, 1672年 - 1699年12月31日)は、北インドのラージャスターン地方、アンベール王国の君主(在位:1688年 - 1699年)。
ビシャン・シング Bishan Singh | |
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アンベール王 | |
ビシャン・シング | |
在位 | 1688年 - 1699年 |
別号 | マハーラージャ |
出生 |
1672年 アンベール |
死去 |
1699年12月31日 カーブル |
子女 |
ジャイ・シング2世 ヴィジャイ・シング |
王朝 | カチワーハー朝 |
父親 | キシャン・シング |
宗教 | ヒンドゥー教 |
生涯
編集1672年、アンベール王国の君主ラーム・シングの息子キシャン・シングの長男として、アンベールで誕生した[1][2]。
1688年3月、祖父ラーム・シングが死亡したことにより、王位を継承した[1][2]。同月30日、皇帝アウラングゼーブによって王であることが認められた。
1685年、マトゥラー方面でジャート族の反乱が勃発した。この反乱はよく組織され、ゲリラ戦の方法を取るとともに、それを略奪と併用した[3]。そのため、アウラングゼーブは反乱を鎮圧するため、ビシャン・シングと交渉した。
交渉後、ビシャン・シングはマトゥラーのファウジュダール(治安・警察長官)に任命された[3]。また、彼にはその地域全体がザミーンダーリー(ザミーンダールの権利)として与えられた。
だが、結果的にこのことはラージプートとジャートとのザミーンダーリー権をめぐる対立を難しくした。というのは、大部分の第一次ザミーンダールは土地所有耕作農民たるジャートであり、ラージプートは地税を徴収する中間ザミーンダールであったからである[3]。
ジャート族は頑なに抵抗を重ねたものの、1691年までに指導者らは降伏した。だが、この地域のジャート農民は略奪活動を重ね、デリー・アーグラ間の街道は旅行者には危険なものとなった[3]。
1696年、ビシャン・シングはデカン戦争に参戦するため、デカン地方に滞在するアウラングゼーブのもとに赴いた。だが、彼はアウラングゼーブの怒りを買い、アフガニスタンのカーブルに幽閉されていた皇子ムアッザムのもとに送られた。
脚注
編集- ^ a b c JAIPUR (Princely State) (17 gun salute)
- ^ a b c Jaipur (Princely State)
- ^ a b c d チャンドラ『中世インドの歴史』、p. 362
- ^ Cenotaphs Of Kachhawa Rulers
参考文献
編集- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。