ヒ81船団(ヒ81せんだん)は、太平洋戦争後期の1944年11月-12月に日本からシンガポールへ航海した、日本の護送船団である。

ヒ81船団

ヒ81船団を襲ったアメリカ潜水艦の1隻スペードフィッシュ。空母神鷹を撃沈した。
戦争太平洋戦争
年月日1944年11月14日 - 12月4日
場所伊万里湾シンガポール間の洋上。
結果:アメリカの勝利。輸送中の日本陸軍部隊に大損害。ただし、タンカーは無傷。
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
佐藤勉海軍少将
戦力
輸送船 10
空母 1, 駆逐艦 1
海防艦 7, 航空機 14
潜水艦 6
損害
沈没:輸送船 2, 空母 1[注釈 1]
戦死者:約6200-6700人
無し
フィリピンの戦い

概要

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ヒ81船団は、太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)11月中旬に編成された高速タンカー船団(北九州の門司発、シンガポール行き)[1]。ヒ81船団は従来の石油輸送任務に加え[2]、10月中旬以降のフィリピンの戦いに於けるレイテ島地上戦に投入予定の日本陸軍第23師団を輸送する任務も負っていた[3]。 このため第23師団を乗せた軍隊輸送船が同行していた[4]。ヒ81船団は全船が優秀輸送船で、護衛部隊には空母も含む強力な編成だったが[1]アメリカ海軍潜水艦複数隻の襲撃で陸軍特種船2隻(あきつ丸〈11月15日〉、摩耶山丸〈17日〉)と空母1隻(神鷹〈11月17日〉)が沈没し[2][3]、6000人以上が戦死した。乗船中の第23師団は戦力が大きく低下し[4]、その後のルソン島の戦いに影響を与えた。

背景

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太平洋戦争後半の日本は、占領下にあるオランダ領東インド油田から重要資源である石油を本土に運ぶため、シンガポールと門司の間でヒ船団と称する大型高速タンカー主体の専用護送船団を運航していた。ヒ船団は、シンガポールへの往路には奇数、門司へ帰る復路には偶数の船団番号が付されており、ヒ81船団は通算81番目(往路41番目)のヒ船団を意味する[注釈 2]1944年(昭和19年)後半のヒ船団は、アメリカ潜水艦による通商破壊に対抗するため、船団を大規模化し護衛に空母まで使用していた。しかし本船団の3か月前に空母大鷹護衛のヒ71船団が大損害を受けたように[5]、万全の防御とは言えなかった。

ヒ81船団には、本来のタンカーにくわえてフィリピン方面に向かう軍隊輸送船も加入していた[6]。1944年(昭和19年)10月17日以降、アメリカ軍がレイテ島周辺に上陸してレイテ島の戦いが生起する[7]。当時、日本軍はレイテ島決戦を企図して同島へ増援輸送作戦を決行しており(多号作戦[8]、フィリピンの防衛強化は緊急性があった[9]。 だが戦況の悪化にともないフィリピン現地の第14方面軍(司令官山下奉文陸軍大将)[10]南方軍総司令官寺内寿一元帥陸軍大将)はルソン島地上決戦を志向し(レイテ決戦断念)[11]、内地の大本営はレイテ決戦の意志を固めるなど、作戦方針の違いが顕在化しはじめた[12]

ヒ81船団に乗船したのは、関東軍から抽出されてルソン島防衛に向かう第23師団通称号:旭兵団)が主力である[6]。同師団はノモンハン事件で壊滅した後に、優良装備で再建された精鋭部隊だった[13][14]。第23師団は10月23日附で第10方面軍戦闘序列に編入され、朝鮮半島南部で乗船準備をすすめた[15]。つづいて昭和天皇の裁可を得て、11月4日附で第14方面軍戦闘序列に編入された[15]。11月8日には独立野砲兵第十三大隊を第23師団編合に編入し、戦力を強化した[15]。 第23師団は11月24日のレイテ島突入を予定していた[16]。 ほかには、特攻兵器である四式肉薄攻撃艇を装備した海上挺進第20戦隊もヒ81船団(あきつ丸乗船)[注釈 3]でフィリピンに向かうことになった[6]。これら重要部隊の輸送のため、通常の貨物船ではなく揚陸艦である陸軍特種船が4隻(あきつ丸、神洲丸、摩耶山丸、吉備津丸)も集められた[6][17]

対するアメリカ海軍は、潜水艦3隻から成るウルフパックを投入し、日本の資源船団や軍隊輸送船団を盛んに攻撃していた[2]。アメリカ潜水艦は、暗号解読情報などに基づいて日本の船団の行動を知らされ、待ち伏せ攻撃を行っていた。

航海の経過

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陸軍特種船あきつ丸。全通甲板型の揚陸艦で、改装により護衛空母機能を追加されていたが、ヒ81船団参加時には通常の輸送船として使用された。
 
海防艦昭南。対潜機能を重視した船団護衛専用艦だったが、ヒ81船団を守り切れなかった。

ヒ81船団は、伊万里湾に集結して編成を整えた[2]。加入船は、海軍特設給油船を含む大型高速タンカー5隻と、フィリピン行きで途中まで同行の陸軍特種船4隻、元特設水上機母艦である海軍特設運送艦聖川丸の計10隻で、この時点では最高級の優秀船ばかりだった[18]。 護衛部隊は、空母神鷹のほか松型駆逐艦海防艦5隻(対馬択捉大東昭南久米[注釈 4]で構成されていた[1][13]。これが5回目(3往復目)の護衛任務となる神鷹(艦長石井藝江海軍少将)は[注釈 5]、対潜警戒用に九七式艦上攻撃機14機を搭載していた[2][1]。船団の指揮は、第8護衛船団司令部(司令官:佐藤勉海軍少将)が担当する[19]。佐藤少将は聖川丸に将旗を掲げた[1]

11月14日朝、ヒ81船団は伊万里湾を出港した[1]。当初の計画では対馬海峡を横断して済州島を回り込み、経由地である澎湖諸島馬公に向けて航行する予定であった。しかし、敵潜水艦の無線電話と思われる交信電波が多数傍受されたため、対馬海峡途中から引き返し、14日夜は五島列島北端に避難して碇泊した。翌11月15日、船団は3列縦隊を組んだ厳戒態勢で航行を再開し、「神鷹」の搭載機が昼間は常時2機ずつ船団上空を警戒飛行するなど厳重な警戒を行った[20]

一方、アメリカ海軍はクイーンフィッシュ艦長のチャールズ・E・ラフリン少佐率いるウルフパックウルフパック「ラフリンズ・ルーパーズ」、ウルフパック「いたずらっ子」の合計6隻が船団の進路上を哨戒していた。

同日正午前、済州島東方110km付近に差し掛かったところで、陸軍特種船あきつ丸(日本海運:9186総トン、部隊約2000名、馬450匹)が[3][13]、アメリカ潜水艦クイーンフィッシュの魚雷攻撃を受けてしまった[20][21]。あきつ丸は、自衛用の爆雷や輸送中の弾薬が誘爆を起こし、わずか数分で転覆・沈没した[20]。駒宮真七郎によれば、第23師団歩兵第64連隊関係者(中井春一聯隊長含む)など乗船者2576人のうち2000名以上が死亡した[17][注釈 6][注釈 7]

あきつ丸の生存者を収容したヒ81船団は、朝鮮半島南岸へと北寄りに針路を変え[13]、爆雷を威嚇投下しつつ退避した[20]。夜を徹して航行した船団は、16日未明に巨文島にたどり着き、様子をうかがってから済州島に移動と、島嶼を利用しながら前進した[2]

11月17日[13]、ヒ81船団は次の仮泊地である舟山列島泗礁山泊地(en)に向けて出航した。日中は一見何事もなく経過したが、実際には、アメリカ潜水艦と中国大陸から飛来したアメリカ海軍の哨戒機によって、船団は再び発見されていた。輸送船の煙突から出た黒煙(機関の不完全燃焼による)が[23]、発見の原因になったとも言われる[24]。アメリカ潜水艦群は、対潜哨戒機が着艦を余儀なくされる日没を待って襲撃行動を開始した[24]。 同日午後6時30分頃、陸軍特種船摩耶山丸三井船舶:9433総トン)が被雷して轟沈した(沈没まで約10分)[13][20]。これは、アメリカ潜水艦ピクーダの攻撃であった[21][20]。駒宮真七郎によれば、乗船中の第23師団司令部と歩兵第72連隊その他約4500人中3187人が戦死した[17][注釈 8]。大内健二によると戦死者数は3437人で、太平洋戦争中の日本輸送船の犠牲者数としては富山丸に次ぐ第4位の惨事であった[25][注釈 7]。護衛の海防艦昭南が爆雷で応戦し、敵潜水艦撃沈確実と報告したが[26]、実際にはピクーダに損害はなかった。

 
1943年11月に撮影の空母神鷹の姿。

摩耶山丸の沈没から5時間後の17日午後11時頃、今度は神鷹がアメリカ潜水艦スペードフィッシュに雷撃された[27][28]。神鷹には魚雷4本が命中する[24][29]。航空用ガソリンタンクが破損して炎上し[29]、神鷹は爆発を繰り返しながら30分後に沈没した[2]。ガソリンが海面に燃え広がったため生存者は少なく、乗員1160人中1100人が戦死した(生存者60名)[2][30]。日本側の護衛艦は必死に対潜攻撃を行い、18日午前3時13分には海防艦対馬[26]が敵潜水艦撃沈確実を報じたが[31]、該当するアメリカ潜水艦の喪失記録は無い[3]。なお、スペードフィッシュは陸軍特種船神州丸を損傷させたとも主張している[21]

生き残った輸送船は、潜水艦の行動の難しい水深の浅い沿岸部をたどり、18日夕刻になんとか泗礁山泊地に逃げ込んだ。救助と対潜攻撃を終えた護衛艦が追いつくのを待ち、21日朝にヒ81船団は澎湖諸島の馬公へ向けて再出発した[29]。潜水艦を警戒して、水深の浅い海域を選んで航行を続けた。

11月25日正午に澎湖諸島東方で、陸軍特種船2隻(神州丸、吉備津丸[29]と海軍特設運送艦聖川丸、海防艦2隻(大東、対馬)が分離した。分離した陸軍船団は26日[注釈 9]に無事に高雄に到着した[32]。その後、陸軍特種船2隻(神州丸、吉備津丸)[32]は高雄発マニラ行きタマ33船団を編成し、海防艦4隻と掃海艇1隻を追加した護衛部隊7隻を伴って30日に出航する。空襲回避のため目的地をマニラからサンフェルナンドに変更[33]、12月2日に同地へ到着した[32][34]

タンカー5隻・護衛艦4隻となったヒ81船団は、11月25日に経由地の馬公に入港した。故障したタンカーのみりい丸を同地で分離し、護衛にミ27船団後述)の生き残りなど海防艦2隻を加えて27日に出港、南シナ海を通って12月4日にシンガポールに到着した。

結果と影響

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ヒ81船団からヒ82船団に参加したタンカーの音羽山丸(三井物産:9204総トン)。12月22日にアメリカ潜水艦フラッシャーの雷撃により撃沈された。(戦前撮影の写真)

ヒ81船団の石油積み取りと並ぶ目的だったフィリピンへの増援部隊輸送は、半数を失う結果となった[35]。第23師団は、師団長こそ生還したものの参謀長・参謀2名・高級副官・各部長海没[35]歩兵第64連隊は連隊長中井春一中佐以下1300名が戦死[35]歩兵第72連隊は第2大隊が大隊長以下750名戦死[35]。野砲兵第17連隊は、聯大隊本部、段列、第二中隊海没[35]。同師団には別便のミ29船団で輸送中の分があったが、こちらでも特科部隊の一部が乗った貨客船はわい丸がアメリカ潜水艦シーデビルの雷撃で撃沈され全員戦死している[36]。第23師団は戦う前から大幅な戦力低下をきたし[4]、補充がままならないうちに1945年(昭和20年)1月のアメリカ軍ルソン島上陸を迎えて苦戦することになる。 第23師団の大損害は大本営に衝撃を与え[4]、フィリピン方面の戦いに改めて「異状の努力を傾けて」臨むことになった[14][37]

もう一方の目的の石油積み取りに関しては、無事にシンガポールへ到着したタンカー4隻のうち東亜丸を除く3隻は、別のタンカー2隻を加えて復路のヒ82船団を編成した。同じくヒ81船団から折り返しの海防艦択捉以下6隻(択捉、昭南、久米、第9号海防艦、第19号海防艦、駆逐艦潮)の護衛で、ガソリンを満載して12月12日にシンガポールを発ったが、途中でアメリカ潜水艦により3隻のタンカーが撃沈され、翌年1月9日に日本に着いたタンカーは5隻中で1隻だけであった[注釈 10]

なお、ヒ81船団の6日前に出港した門司発高雄経由マニラ行きのモマ07船団(輸送船11隻、護衛艦5隻)もヒ81船団を襲ったのと同じアメリカ潜水艦群に捕捉され、輸送船3隻を撃沈され、輸送船1隻が損傷した。同船団は19日に途中の高雄で解散となってしまった。同船団を襲った潜水艦は神鷹を沈めたスペードフィッシュやあきつ丸を沈めたクイーンフィッシュ、ピートであった。 また、門司発・高雄経由・ミリ行きのミ27船団(輸送船10隻・護衛艦5隻)が、ヒ81船団から1日後れで同じ航路をたどっていたため、11月17日夜に済州島西方でアメリカ潜水艦群に捕捉され、輸送船4隻を撃沈された。同船団は、26日に途中の高雄で解散となってしまった[39]。同船団を襲った潜水艦は神鷹を沈めたスペードフィッシュや摩耶山丸を沈めたピクーダ、サンフィッシュ、ピートで、ヒ81船団の巻き添えを食った形であった[21]。2個の船団が同じ航路を採ったのは、黄海に設置された日本海軍の防御機雷堰を利用して航行しようとしたためだとも言われる[18]。ヒ81船団護衛に途中加入の第61号海防艦は、ミ27船団の生き残りであった。

編制

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ヒ81船団

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アメリカ潜水艦部隊

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注釈

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  1. ^ 戦史叢書(81巻)』469頁では神鷹以外に駆逐艦1沈没とするが、該当艦はない。
  2. ^ ヒ20船団など欠航となった便があるため、実際の運航順は通算81番目や往路41番目ではない。
  3. ^ 大内健二著『護衛空母入門』262頁では、あきつ丸の搭載特攻ボートを震洋100隻とする。
  4. ^ 大内健二著『護衛空母入門』259頁では「ヒ81船団は貨物船1・陸軍特種船4・駆逐艦1・海防艦7・神鷹で11月13日伊万里湾抜錨」とするが、海防艦2隻(第9号第61号)は途中合流である。
  5. ^ 大井篤著『海上護衛戦』(角川文庫2014年)353頁では「神鷹の船団護衛はヒ81船団が最初」とするが、誤認。神鷹の初出撃は昭和19年7月のヒ69船団。
  6. ^ 戦史叢書(第41巻)』470頁では秋津丸沈没による戦死者を2373名とする。
  7. ^ a b 大内健二によれば、戦死者数はあきつ丸と摩耶山丸を合わせてフィリピン行きの陸軍将兵だけで5483人に上る[22]
  8. ^ 戦史叢書(第41巻)』470頁では、摩耶山丸の陸軍兵は2295名と軍馬他、師団長西山福太郎陸軍中将含め人員約900名救助とする。
  9. ^ 戦史叢書(第41巻)』503頁では、神州丸の高雄到着は28日とする。
  10. ^ 音羽山丸、ありた丸、御室山丸が沈没、橋立丸は高雄で船団離脱で、中型のぱれんばん丸のみが日本に到着している[38]
  11. ^ 大井篤は盛祥丸en)、江戸川丸、逢坂山丸および阿波川丸の名を挙げるが[23]、駒宮真七郎によれば、これらは後続のミ27船団の参加船である[39]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 日本空母戦史818-819頁「ヒ八十一船団(昭和十九年十一月十四日、門司発)」
  2. ^ a b c d e f g h 護衛空母入門258-260頁「神鷹」
  3. ^ a b c d 戦史叢書93巻72-73頁「第二十三師団の海没」
  4. ^ a b c d 戦史叢書81巻469頁「第二十三師団の遭難」
  5. ^ 護衛空母入門247-249頁「大鷹」
  6. ^ a b c d 日本空母戦史817-818頁
  7. ^ 戦史叢書81巻323-324頁「スルアン島来攻」
  8. ^ 戦史叢書93巻51-52頁「レイテ増援輸送作戦を多号作戦と呼称」
  9. ^ 戦史叢書48巻424-425頁「十一月中旬後半、大本營のレイテ決戦遂行に対する自信動揺」
  10. ^ 戦史叢書81巻429-430頁「方面軍幕僚にレイテ地上決戦断念意見擡頭」
  11. ^ 戦史叢書81巻437-440頁「総司令官の比島作戦推移観察と大本営の指導」
  12. ^ 戦史叢書93巻69-70頁「現地陸軍部隊のレイテ決戦断念の意向と大本営の既定方針の堅持」
  13. ^ a b c d e f 戦史叢書41巻469-470頁「第二十三師団主力海難の報到る」
  14. ^ a b 戦史叢書48巻425-426頁「第二十三師団の輸送失敗とレイテ持久転移の直感」
  15. ^ a b c 戦史叢書81巻427-428頁「第二十三師団の第十四方面軍編入」
  16. ^ 戦史叢書41巻468-469頁「十七日の大本營陸海両部の合同と当時の状況」
  17. ^ a b c 駒宮(1987)、292-293頁。
  18. ^ a b 岩重(2011)、94頁。
  19. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室(1971)、380-382頁。
  20. ^ a b c d e f 日本空母戦史820-821頁
  21. ^ a b c d The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  22. ^ 大内(2004)、227頁。
  23. ^ a b 大井(2001)、350-351頁。
  24. ^ a b c 航空母艦物語307-309頁「夜空をこがして(神鷹VSスペードフィッシュ)」
  25. ^ 大内(2004)、339頁。
  26. ^ a b 『第一海上護衛隊戦時日誌』、画像48枚目。
  27. ^ 海上護衛戦(角川文庫)354頁
  28. ^ 空母二十九隻325-326頁「神鷹(しんよう)」
  29. ^ a b c d 日本空母戦史822-823頁
  30. ^ 大内(2004)、228頁。
  31. ^ 海防艦激闘記、121-122頁「護衛空母「神鷹」艦長」
  32. ^ a b c 戦史叢書41巻487-488頁
  33. ^ 駒宮(1987)、300-301頁。
  34. ^ 戦史叢書41巻490頁「挿表 輸送と主要事項概見表」
  35. ^ a b c d e 戦史叢書41巻503頁「注、吉備津丸、神州丸に移載時の第二十三師団主力の惨状」
  36. ^ 駒宮(1987)、299-300頁。
  37. ^ 戦史叢書48巻426頁「比島方面兵力増強と参謀総長のレイテ決戦完遂意図開陳」
  38. ^ 駒宮(1987)、306-307頁。
  39. ^ a b 駒宮(1987)、293-294頁。

参考文献

編集
  • 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド2‐日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2011年。
  • 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。
  • 大井篤『海上護衛戦』株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8 
  • 大内健二 『商船戦記』 光人社〈光人社NF文庫〉、2004年。
  • 大内建二『護衛空母入門 その誕生と運用メカニズム』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 木俣滋郎「5 神鷹の沈没(十一月十七日)―第二十三師団の海上輸送」『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月、817-823頁。 
  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5 
    • (119-127頁)当時「対馬」艦長・海軍少佐鈴木盛『択捉型「対馬」南方船団護衛七つの戦訓 一年十ヶ月にわたり護衛任務に従事した歴戦艦長の対空対潜戦闘
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版共同社、1987年。
  • 第一海上護衛隊司令部 『自昭和十九年十一月一日 至昭和十九年十一月三十日 第一海上護衛隊戦時日誌』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08030141700
  • 野元為輝ほか『航空母艦物語 体験で綴る日本空母の興亡と変遷!』潮書房光人社、2013年6月。ISBN 978-4-7698-1544-0 
    • (300-309頁)戦史研究家大浜啓一『青い目の見た軽空母七隻の最後 海中深くひそむ米潜水艦と鷹型空母の息づまる対決
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1971年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 捷号陸軍作戦<1> レイテ決戦』 第41巻、朝雲新聞社、1970年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 比島捷号陸軍航空作戦』 第49巻、朝雲新聞社、1971年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<9> ―昭和二十年一月まで―』 第81巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 横井俊之ほか『空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相』潮書房光人社、2016年2月。ISBN 978-4-7698-1611-9 
    • (277-289頁)元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家正岡勝直『鷹型ミニ空母五隻が辿った薄幸の生涯 客船改造の大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹の船団護衛と潜水艦との戦い
    • (309-334頁)戦史研究家伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争

関連項目

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