パラメデス・パラメデスゾーン

パラメデス・パラメデスゾーン(Palamedes Palamedesz.、1605年8月6日(洗礼日)[1] - 1638年3月26日(葬礼日))は、オランダの画家である。戦場の情景や、騎馬姿の人物画を描いたことで知られる[2]。同名の甥、パラメデス・パラメデスゾーン2世(Palamedes Palamedesz. II: 1632-1705)、画家の息子パラメデス・パラメデスゾーン3世(Palamedes Palamedesz. III: 1631-1683)と区別するために パラメデス・パラメデスゾーン1世とも呼ばれる。

パラメデス・パラメデスゾーン
Palamedes Palamedesz.
アンソニー・ヴァン・ダイクによる肖像画版画
生誕 1605年8月6日(洗礼日)
エディンバラ
死没 1638年3月26日(葬礼日)
オランダ、デルフト
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略歴

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スコットランドのエディンバラの港湾地区のリース(Leith)で生まれた。父親のパラメデス・ウイレムスゾーン(Palamedes Willemsz. Stevens)はフランドル出身の工芸家で、貴石の彫刻などの仕事でスコットランド王ジェームズ6世の宮廷で働いていて、ジェームズ6世が1603年にイングランド王に即位した後、ロンドンでも働いたと推定されている[3][4] 。兄のアントニー・パラメデスゾーン(Anthonie Palamedesz.: 1602-1673)は画家になった。

パラメデス・パラメデスゾーンが生まれた後、家族とオランダのデルフトに移った。18世紀初めにアルノルト・ホウブラーケンが出版した伝記によれば、パラメデス・パラメデスゾーンは、師について学ぶことなく、エサイアス・ファン・デ・フェルデの作品を模写して修行したとされるが[4]ミヒール・ファン・ミーレフェルトの弟子になって肖像画家、風俗画家になった兄から絵を学んだとも考えられている[5] 。1627年にデルフトの聖ルカ組合の会員になった[5]

1630年1月に裕福な家の娘と結婚し、1631年にはアントウェルペンで働き、その年、息子のパラメデス・パラメデスゾーン3世が生まれたが[1]、1638年に33歳で没した[1]

騎兵の戦いの情景を描いた作品を多く残した。

作品

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参考文献

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  1. ^ a b c M. Westhoff, 'Fragmentgenealogie van Palamedes Stevensz', Gens Nostra 73 (2018), p. 188-189
  2. ^ Palamedes Palamedesz. (I) at the Netherlands Institute for Art History
  3. ^ Palamedes Willemsz. Stevens at the Netherlands Institute for Art History
  4. ^ a b Palamedes Palamedesz. Stevers Biography in: Arnold Houbraken De groote schouburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen, 1718
  5. ^ a b Walter A. Liedtke, Michiel Plomp, Axel Rüger, Vermeer and the Delft School, The Metropolitan Museum of Art, 2001, pp. 322-323