パナマ・ホテル英語: Panama Hotel)は、アメリカ合衆国ワシントン州シアトルにあるホテル。シアトルの旧日本町にあたる地区(現在のチャイナタウン=インターナショナル・ディストリクト英語版に相当)において、開業当時から営業を続けている、唯一のホテルとして知られている。

パナマ・ホテル
2007年10月7日撮影
パナマ・ホテルの位置(ワシントン州内)
パナマ・ホテル
所在地アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ワシントン州シアトル
座標北緯47度35分59.6秒 西経122度19分33.2秒 / 北緯47.599889度 西経122.325889度 / 47.599889; -122.325889座標: 北緯47度35分59.6秒 西経122度19分33.2秒 / 北緯47.599889度 西経122.325889度 / 47.599889; -122.325889
建設1910年
建築家小笹三郎
NRHP登録番号06000462
指定・解除日
NRHP指定日2006年3月20日
NHL指定日2006年3月20日

ジェイミー・フォード英語版の小説『あの日、パナマホテルで英語版』が、2010年にニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りを果たした事をきっかけに、全米でもその名が知られるようになった[1]

ホテルの1階で運営されているカフェ

歴史

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戦前

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1910年8月に、日本から出稼ぎのため、単身渡米した男性向けの長期宿泊施設として開業。建物には、労働者やその家族を対象とした寝室だけでなく、診療所営業写真館・翻訳事務所・生命保険会社・銭湯・レストランなども入居していた。このことから、シアトルの日系コミュニティでは、日本館劇場と並んで中枢機能を担っていたと言える[2]

名称の由来は、開業当時に建設中だったパナマ運河に因んでいるという説が、現在では有力である[3]

ホテルは、1938年に1世の堀三次郎が、アメリカ市民権を持つ息子・隆の名義で購入するまでは、多くの人々によって管理されていた。特に1931年までは、同時に2人以上の日本人が、オーナーに名を連ねていたという。これは、当時のワシントン州では外国人土地法によって、アメリカ市民権を保有していない人物が、土地を所有することは不可能だった。それに伴い、地元の会社が所有する形で、日本人が「雇われオーナー」として経営に携わっていたことに起因している[4]

強制収容の実施にあたって

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1941年12月7日の、日本軍による真珠湾攻撃がきっかけとなり、太平洋戦争が開戦。翌1942年2月19日に、フランクリン・ルーズベルト大統領は『大統領令9066号』を発令。ワシントン・オレゴンカリフォルニアアリゾナの4州が軍管理地域に指定され、約12万人の日本人移民・日系人が、全米10か所に点在する強制収容所へ送致されることとなった。

立ち退きにあたって、日系人達は各々が両手で運べる荷物しか、収容所へ持ち込むことを許されなかった。その為、それ以外の私物は、全て売却または譲渡することを余儀なくされた。その際、日本町で中華料理店を営む夫婦が、三次郎のもとを訪問。収容所へ運べない荷物を、ホテルの地下で保管できないかと質問したところ、三次郎はそれを承諾。この話は、直ちに日本町中に広まった。当局側が定めた立ち退きの期限日までに、後述する『橋立湯』のスペースを含めたホテルの地下フロアには、日系人達の荷物が、天井に届くほどの高さにまで、積まれるようになった[5]

戦後

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終戦後は、堀家による経営が再開されたが、1985年に当時のオーナーだった隆は、ホテルを手放すことを決意。同州オリンピア出身で、イタリアから帰国して間もない白人女性のジャン・ジョンソンへ売却されることとなった。

 
床板に設置されたガラスパネルから確認できる、ホテルの地下室に放置された日系人による荷物の一部

オーナーに就任して以降のジョンソンは、建物やその内装、調度品などを当初のまま保存することに努めた。また、上述した日系人達が収容所へ送致される前に、ホテルへ預けた荷物の多くが、引き取られないまま放置されている現状を鑑みて、2001年に1階をカフェとして改装した際、床の一部をガラスに張り替えた。利用客は、そこから船旅用のトランクスーツケース行李・ベッドのスプリング・化粧台・使いかけの醤油味の素の缶・漬物マツタケの入った壺・ヴァイオリン・バラバラの楽譜・真新しいハンカチや衣類などといった、自分達の与り知らない所で起こった出来事により破壊され、不安と恐怖に晒され、それでもいつか必ず、以前のような生活に戻れる日が来ることを信じて預けられた、日系人達の「日常の断片」を窺うことが出来る仕様になっている[6][注釈 1]

橋立湯

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ホテルの地下で、1916年より運営されていた銭湯『橋立湯(はしだてゆ)』は、シアトルの日系人達にとっては、何よりの心の拠り所だったとされている。

日頃から、過酷な肉体労働や人種差別英語版に苛まれる日本人移民・日系人達にとって、白人の視線を気にせず、同胞達だけで辛さを分かち合い、疲れを癒し、祖国に想いを馳せることの出来る憩いの場を設けたいという、ホテル側の意向により、敢えて英語での宣伝は行われなかった。

その『橋立湯』も、戦後は水道代の高騰に加え、一般家庭に浴室が普及するといった、公衆浴場そのものの必要性が低くなった時代の流れもあって、1963年に営業を終了した。しかし、浴場の施設は、現在でも当時の状態が、完全に保存されており、北米では唯一現存する、日本式公衆浴場の跡地となっている[7][8]

顕彰

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国定歴史建造物に指定された旨を記したプレート

2006年3月20日には、内務省から国家歴史登録財国定歴史建造物に指定された[9]

2015年4月9日には、合衆国歴史保護ナショナル・トラスト英語版から国内では60件しかない「国宝」に認定された[10]。同日には、シアトルの二世退役軍人会会館で、記念式典が執り行われ、当時のナショナル・トラスト会長だったステファニー・ミークス、民主党連邦下院議員のジム・マクダーモット英語版、シアトル副市長のヒョク・キムらが出席した[11]

日本国政府からも、2020年12月1日に外務大臣表彰を受賞している[12]

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ 余談ではあるが、放置されていた荷物の一部は、1990年代よりリトル・トーキョー全米日系人博物館と、エリス島の移民博物館へ貸与されている。

出展

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  1. ^ エッセイ:シアトルの日系アメリカ人の歴史を伝える国宝 『パナマ・ホテル』 第1回:パナマ・ホテルとの出会い - JUNGLE CITY.COM シアトル日本語情報サイト
  2. ^ Brown, Kate (January 1996). “The Eclipse of History: Japanese America and a Treasure of Forgetting”. Public Culture 9 (1): 69–91. doi:10.1215/08992363-9-1-69. http://publicculture.dukejournals.org/content/9/1/69. 
  3. ^ エッセイ:シアトルの日系アメリカ人の歴史を伝える国宝 『パナマ・ホテル』 第6回:シアトル日本町の歴史とパナマ・ホテル その一
  4. ^ エッセイ:シアトルの日系アメリカ人の歴史を伝える国宝 『パナマ・ホテル』 第7回:シアトル日本町の歴史とパナマ・ホテル その二
  5. ^ エッセイ:シアトルの日系アメリカ人の歴史を伝える国宝 『パナマ・ホテル』 第8回:シアトル日本町の歴史とパナマ・ホテル その三
  6. ^ インタビュー ジャン・ジョンソンさん〜パナマ・ホテル オーナー兼支配人 - SoySource
  7. ^ エッセイ:シアトルの日系アメリカ人の歴史を伝える国宝 『パナマ・ホテル』 最終回:北米に唯一完全な形で現存する日本式公衆浴場『橋立湯』 - JUNGLE CITY.COM シアトル日本語情報サイト
  8. ^ The Panama Hotel opens in Seattle's Japantown in the summer of 1910”. www.historylink.org. 2016年5月20日閲覧。
  9. ^ Panama Hotel - National Trust for Historic Preservation
  10. ^ 旧シアトル日本町にあるパナマ・ホテルの新ウェブサイトが公開に
  11. ^ Preservation in Progress The Panama Hotel - HISTORIC SEATTLE
  12. ^ シアトル日本庭園、パナマ・ホテル(シアトル日系米国人博物館)の令和二年度外務大臣表彰受賞 | 在シアトル日本国総領事館

外部リンク

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