ハンス・ルター
ハンス・ルター(Hans Luther、1879年3月10日 - 1962年5月11日)は、ドイツ国の法律家、財政家、政治家。ヴァイマル共和政時代の1925年から翌年まで、ドイツ国首相を務めた。
ハンス・ルター Hans Luther | |
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生年月日 | 1879年3月10日 |
出生地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ベルリン |
没年月日 | 1962年5月11日(83歳没) |
死没地 |
西ドイツ ノルトライン=ヴェストファーレン州 デュッセルドルフ |
出身校 |
キール大学 ジュネーヴ大学 ベルリン大学 |
所属政党 |
(無所属→) ドイツ人民党 |
内閣 | ハンス・ルター内閣 |
在任期間 | 1925年10月26日 - 1926年1月20日 |
大統領 |
フリードリヒ・エーベルト パウル・フォン・ヒンデンブルク |
内閣 | ハンス・ルター内閣 |
在任期間 | 1925年2月28日 - 1925年3月12日 |
大統領 | 空位 |
在任期間 | 1925年1月15日 - 1926年5月12日 |
大統領 |
フリードリヒ・エーベルト ハンス・ルター(大統領代行・首相兼任) ヴァルター・ジモンス(大統領代行・帝国(ライヒ)最高裁判所長官兼任) パウル・フォン・ヒンデンブルク |
内閣 |
ハンス・ルター内閣 第2次シュトレーゼマン内閣 |
在任期間 | 1923年10月6日 - 1924年12月15日 |
大統領 | フリードリヒ・エーベルト |
内閣 | ヴィルヘルム・クーノ内閣 |
在任期間 | 1922年12月1日 - 1923年10月4日 |
大統領 | フリードリヒ・エーベルト |
経歴
編集ベルリン生まれ。キール大学、ジュネーヴ大学、ベルリン大学で法学を学び、1904年に法学博士号を取得。卒業後は官吏の道に進み、マクデブルク市参事会員(1907年)やエッセン市長(1918年 - 1922年)を務める。
1922年、ドイツ人民党(DVP)寄りの無党派閣僚としてヴィルヘルム・クーノ内閣に食糧・農業大臣として初入閣。第二次シュトレーゼマン内閣で財務相に転じる。ヒャルマル・シャハトを通貨委員に登用し(のちドイツ帝国銀行総裁)、ハイパーインフレーション後のドイツ通貨の安定に努めた。
1925年1月、中央党、ドイツ人民党(DVP)、ドイツ民主党(DDP)のほか、初めて右派民族主義政党であるドイツ国家人民党(DNVP)が加わった連立内閣を組織し、首相となる。首相として議会の権限制限を図った。1925年10月にロカルノ条約調印に反対したDNVPが連立を離脱し、少数与党内閣に転落。1926年5月に国旗をめぐる対立で連立が瓦解し、退陣した。
1927年、DVPに入党。1928年には分権化を主張する「国家刷新同盟」を設立。1930年3月から1933年3月までドイツ帝国銀行総裁を務める。1933年に政権に就いたアドルフ・ヒトラー内閣の雇用創出政策は支持したものの、通貨政策で対立して更迭された。彼の後任としてシャハトが再任した。直後から1937年まで駐米ドイツ大使を務める。1933年にニコラス・バトラー総長の招きでコロンビア大学で講演し、ヒトラー首相の「平和的意図」を強調した。1937年の駐米大使退任後は隠退生活に入った。
外部リンク
編集- Deutsches Historisches Museums経歴(ドイツ語)
公職 | ||
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先代 フリードリヒ・エーベルト |
大統領代行 1925年 |
次代 ヴァルター・ジモンス(大統領代行・帝国(ライヒ)最高裁判所長官) |
先代 ヴィルヘルム・マルクス |
ドイツ国首相 第9代:1925 - 1926 |
次代 ヴィルヘルム・マルクス |
先代 ルドルフ・ヒルファーディング オットー・フォン・シュリーベン |
ドイツ国財務大臣 1923 - 1924 1925 - 1926 |
次代 オットー・フォン・シュリーベン ペーター・ラインホルト |
先代 カール・ミュラー |
ドイツ国食糧・農業大臣 1922 - 1923 |
次代 ゲルハルト・グラーフ・フォン・カーニッツ |