ハインリヒ4世 (ケルンテン公)

ケルンテン公ハインリヒ4世(Heinrich IV. von Sponheim, Herzog von Kärnten, 1065/70年 - 1123年12月14日)は、シュポンハイム家で最初のケルンテン公およびヴェローナ辺境伯(在位:1122年 - 1123年)。

ハインリヒ4世
Heinrich IV.
ケルンテン公
在位 1122年 - 1123年

出生 1065/70年
死去 1123年12月14日
家名 シュポンハイム家
父親 シュポンハイム伯エンゲルベルト1世
母親 ヘートヴィヒ
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生涯

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ハインリヒはシュポンハイム伯エンゲルベルト1世(1096年死去)と、恐らくフリウーリモッサの女伯であったヘートヴィヒ[1]との間の長男である。エンゲルベルトは叙任権闘争においてグレゴリウス7世を支持したため、1091年に皇帝ハインリヒ4世によりバイエルンのプステリア峡谷を奪われた。

ハインリヒの代父で、エッペンシュタイン家の最後のケルンテン公であったハインリヒ3世・フォン・エッペンシュタインの死により、ハインリヒは皇帝ハインリヒ5世からケルンテン公位およびヴェローナ辺境伯位を与えられた。しかしハインリヒはエッペンシュタインの領地は相続できず、それらはオタカル家のシュタイアーマルク辺境伯レオポルトのものとなった。ノイマルクト、ザンクト・ランブレヒトおよびムーラウは、以前はケルンテンのフリーザッハ伯の領地であったが、この結果としてシュタイアーマルク辺境伯の領地となった。

ハインリヒは前任者同様にザルツブルク大司教コンラート1世と対立した。ハインリヒはケルンテン公となって1年後に死去し、弟エンゲルベルトがケルンテン公位を継承した。

脚注

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  1. ^ Peter Štih, Vasko Simoniti, Peter Vodopivec, Slovenska zgodovina (Ljubljana, 2016), 109,131-32.

参考文献

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  • Hausmann, Friedrich. "Die Grafen zu Ortenburg und ihre Vorfahren im Mannesstamm, die Spanheimer in Kärnten, Sachsen und Bayern, sowie deren Nebenlinien". Ostbairische Grenzmarken – Passauer Jahrbuch für Geschichte Kunst und Volkskunde 36 (1994): 9–62.
  • Brunner, Walter. "Das Werden der Landesgrenze gegen Kärnten und Salzburg". Das Werden der Steiermark. Graz: Verlag Styria, 1980.
  • Ortenburg-Tambach, Eberhard Graf zu. Geschichte des reichsständischen, herzoglichen und gräflichen Gesamthauses Ortenburg, vol. 1: Das herzogliche Haus in Kärnten. Vilshofen, 1931.
先代
ハインリヒ3世
ケルンテン公
1122年 - 1123年
次代
エンゲルベルト