ノート:関ヶ原の戦い

最新のコメント:4 年前 | トピック:battle boxにおける混乱 | 投稿者:暁屋

「関ヶ原の戦い」と「関ヶ原の役」の分離について

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ノート:徳川秀忠で「関ヶ原の役」と「関ヶ原の戦い」を区別することが提案されていますが、一体に記述したほうが理解の助けになるようにも思えます。どうしましょうか。Safkan 05:34 2003年10月23日 (UTC)

当面は一体で記述するほうがよいと私も思います。とりあえず「関ヶ原の役」→「関ヶ原の戦い」へのリダイレクトにしませんか。
記事が充実したときに、分割するべきか考えることとしてはどうかと思います(たとえば、上杉景勝らの動きについての内容、伏見城や大津城での戦闘の内容、真田に足止めをくらう徳川秀忠の話などが増えたとき)。mameneko 05:55 2003年10月23日 (UTC)

賛同者が増えてほしいところですが、もし「関ヶ原の戦い」から「関ヶ原の役」に内容を移すとすると、履歴の連続性などが問題になるのでしょうか。 2006年9月2日 (土) 16:00 (UTC)返信

その話はどうなったのですか。決定はしているのですか。--Kuty 2007年1月17日 (水) 09:38 (UTC)返信

分離する記事の量が多いので、賛同者が多いことを望みますが、議論が盛り上がっていませんね。それから、私は履歴の連続性のことはよくわからないので、やり方に詳しい方がいたら、少しずつ始められても良いかも知れません。 2007年4月19日 (木) 12:02 (UTC)返信

まったくの別記事に分離することは反対です。この時起こったことは相互に関連して起こったことです。全体の見通しが分かりにくくなる編集をするのは百科事典としての質を低下させます。対案を出すならば、
  1. 関ヶ原の役に名称変更した上で大坂の役方式で記述するか、もしくは
  2. クレジットカードクレジットカード (日本)に分割した時のような親記事と子記事のような位置づけにする。
のどちらかでお願いしたいと思います。--史跡めぐり 2007年9月8日 (土) 04:10 (UTC)返信

「大阪の役」とは違って日本全国規模の内乱なので、子記事のある「クレジットカード」の方でしょう。結局、どのような配分・手順で分離するかの問題ですが。 2007年9月15日 (土) 15:39 (UTC)返信

記事内容について

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最後の「関ヶ原の戦いの影響」の所はこの項目で書くべき事とも思えませんが。特に土佐藩は。板垣がどうしたとか関係ありませんがな。61.116.127.43 2005年9月3日 (土) 13:06 (UTC)返信


よく言われる話ですが、武断派の襲撃時に 三成が家康の屋敷に逃げ込み~という部分。 Wiki「石田三成」の項の注釈にもありますが、(以下引用)

(なおこの事件時、三成は単身で向島の家康屋敷に難を逃れた、とする書物が多いが、 これらの典拠となっている資料は、明治期以降の「日本戦史・関原役」などであり、 江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものは無い)

とあります。ゆえに事実かどうか疑わしい部分でもあり 石田三成の項と同じく注釈が必要ではないでしょうか?

なんの断りもなく、私の書きこみを勝手に消さないでください。編集合戦は避けたいですし、議論なら私の時間の許せる範囲でいくらでも応じます。歴史研究家より


小早川秀秋が布陣していた松尾山のリンク先が、大和郡山にある松尾山になってます…--Arumakan 2007年4月4日 (水) 03:51 (UTC)返信

保護解除を

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2月に保護されてからすでに半年間も保護されたままであり、加筆もままならない状況です。もう保護解除へむけて動きましょう。賛同が得られれば保護解除を依頼します。--Cave cattum 2007年9月7日 (金) 16:53 (UTC)返信

確かに2月20日に保護されて半年過ぎている現状から考えると、保護解除に向けた議論をはじめてもよろしいかと思います。(岐阜県ポータルには告知いたします。)--Carkuni 2007年9月23日 (日) 14:40 (UTC)返信
すでに長期間経過していますので、解除依頼を出してみます。--Kangoshiyouichi 2007年12月9日 (日) 03:16 (UTC)返信

(議論再開)「関ヶ原の戦い」と「関ヶ原の役」の分離について

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保護も解除されたことですし、「関ヶ原の戦い」と「関ヶ原の役」の親子記事への分離を行いましょう。これまでも議論されているように、「関ヶ原の役」には、開戦原因から戦後処理までの全体的な流れを地方の動向も含めて書き、「関ヶ原の戦い」には美濃での9月15日の戦闘を主に書くようにするのが良いと思います。全体像としては次のようになります。

親記事:関ヶ原の役
子記事:会津征伐 - 伏見城の戦い - 上田合戦 - 浅井畷の戦い - 田辺城の戦い - 大津城の戦い - 河田木曽川渡河の戦い - 米野の戦い - 岐阜城の戦い - 杭瀬川の戦い - 関ヶ原の戦い - 石垣原の戦い - 長谷堂城の戦い - 松川の戦い

分割したときに「関ヶ原の役」へ移すのは、現在の「関ヶ原の戦い」の次の章です。

1 概要
2 決戦までの経緯
3 全国の大名・武将の動向
4 経過
4.1 前哨
5 地方への波及
6 戦後処理・論功行賞

関ヶ原の戦い」に残すのは次の章です。

4 経過
4.2 布陣
4.3 開戦
4.4 小早川秀秋の寝返り
4.5 西軍敗走
7 関ヶ原の戦いに関する論点
8 関ヶ原の戦いを描いたドラマ

もう少し様子を見て、反対が無いようであれば、改めて分割提案を行います。--Cave cattum 2008年1月8日 (火) 09:40 (UTC)返信

ちょっと気になったんですけれども、戦国史研究や近世初期研究、ないし戦史研究の場で「関ヶ原の役」と「関ヶ原の戦い」の使い分けはどのくらいの頻度で見られるものなんでしょうか。史学研究者の著作・論文でも(本当はちゃんと使い分けられるべきなんでしょうが)「関ヶ原の戦い」や「関ヶ原合戦」のタームで「役」全体のことが論じられてたりしますんで、腑に落ちないでおります。西軍と東軍の戦争全体を「関ヶ原の役」とすべきことの典拠(出典)をお示しいただければ嬉しいです。--shimoxx 2008年1月12日 (土) 16:13 (UTC)返信

上記の分割案に賛成します。戦国史研究や近世初期研究で使い分けができていないとすれば、日本史学界が用語を整理できていないことからくる混乱ですね。そうした日本史用語の混乱を批判した文献はありますが。少なくともネット上で「関ヶ原の役」としている場合は、おおむねこの戦争全体を指しているようです(参考[1])。ちなみに落穂集では役の方を「慶長五年庚子之兵乱」、戦いの方を「関原(御)合戦」と区別したようです。
それから、Category:関ヶ原の戦いも名称変更する必要があります。 2008年1月13日 (日) 09:24 (UTC)返信

ケチをつけるつもりじゃないんですけども、気になってるのは、学術研究の場で戦争としての「関ヶ原の役」と個別戦闘としての「関ヶ原の戦い」とが使い分けられてないんであれば、両者を切り分けることは独自研究になっちゃわないかなー、ってことなのです。ゐさんの挙げられた参考リンク先は信頼できる情報源に当たらないような気がしましたので、独自研究の疑いがぬぐえないでおります。要するにですね、日本史学界が用語を整理できないでいるのなら、ウィキペディアではその整理できてない現状に基づいた記述しかできないんじゃなかったっけ?という問いかけでございます。--shimoxx 2008年1月13日 (日) 11:47 (UTC)返信
リンクした先が適切だったかどうかは別として、一般に「関ヶ原の役」と呼んでいる場合は濃州関ヶ原における戦いだけを指すことはほとんどなく、独自研究でもなんでもなく、容易に判別できるものだと思います。例えば、関ヶ原を特集した雑誌別冊・ムックなどを出すとき、関ヶ原戦争全体の総論記事があり、それとは別に個別の戦闘の記事に混じって関ヶ原「本戦」の個別記事が載る。記事を書く上でごく自然な区別ではないでしょうか。ちなみに、日本史上の月日を和暦・西暦の換算表示にすることは私などがウィキペディアでやり始めたことですが、日本史研究では月日の西暦換算表示など皆無ですが、これは独自研究でもなんでもなく、より適切な表現をしただけのことです。 2008年1月13日 (日) 12:35 (UTC)返信
1日に何度もすいません。関ヶ原を特集する雑誌別冊やムックとは、学研とか新人物往来社発行のものですか?あの雑誌・ムック群はたまに信頼できる研究者が執筆されてることもあるのですけれど、残念ながらウィキペディアでいう信頼できる情報源には当たらないと言わざるを得ません。もし「関ヶ原の役」という用語・概念が学研や新人物往来社の雑誌別冊・ムックにしか見られないのなら、改名ないし分離の根拠として不十分だなと思うんですけれども、いかがでしょうか。--shimoxx 2008年1月13日 (日) 13:49 (UTC)返信
論点がずれてしまったようですが、雑誌別冊やムックとは比喩として出しただけであった、学術論文集でも同じことです。何もウィキペディアの記事を日本国内の日本史学界独特の日本POVのやり方で支配する義務はありません。ある一連の出来事について、全体と個別の要素を整理して記事にしましょうというだけのことなんです。「大坂の役」と同様に「関ヶ原の役」という昔からある表記を使うということだけです。これ以上レスを続けても水掛け論の応酬になりそうなので、とりあえずレスはここまでとします。 2008年1月14日 (月) 00:31 (UTC)返信
結論から申し上げますと分割には反対です。
まずゐさんの「何もウィキペディアの記事を日本国内の日本史学界独特の日本POVのやり方で支配する義務はありません」という言葉には首を傾げざるを得ません。日本史の項目で日本史学界のやり方に従うのは当たり前のことだと思うのですが・・・。それとも海外の日本史学界ではまるで状況が違うのでしょうか?それはそれで一考の余地がありますが、かといって日本の日本史学界の動向を無視する理由にはなりません。また「昔からある表記」が正しい表記というわけではありません。
少なくとも「日本国内の日本史学界のやり方」は「ウィキペディア独自のやり方」よりも優先されるべきです。
解りやすくするために分割が必要ならばそれはそれで良いと思いますが、現状の記事を見る限り別段分割をしなくてももっとわかりやすくできそうな気がします。特に「全国の大名・武将の動向」の節でずらーと武将の名前が並んでいるのは実にみっともないというかなんと言うか。またドラマの配役なんてどうでもいいでしょう。
現状で単に分割しても「解りづらい記事が二つになるだけ」の気がします。まずはこの記事を整理整頓することから始めるべきではないでしょうか。らりた 2008年1月19日 (土) 15:31 (UTC)返信
利用者:らりたさんへ;「日本史の項目で日本史学界のやり方に従うのは当たり前のこと」というご意見について。例えば一例ですが、ノート:朝貢に「冊封体制論は、主に日本で支持されている学説なので」とあるように、日本が属していたのは「冊封」か「朝貢」か、日中の学界間で見解が分かれるようなときに、ウィキペディアの記事を日本史学界のやり方が支配するのではなく、両論併記にするのが中立的ではないかと思うのです。日本が関わった過去の出来事について、日本の学界だけが絶対ではないのだ、ということです。「この記事を整理整頓することから始めるべき」には同意です。 2008年5月19日 (月) 10:17 (UTC)返信


滝川忠征は東軍では?

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西軍の伊勢方面隊の中に滝川忠征が見えるのですが、彼は徳川家康に仕えていたので、東軍ではないのでしょうか?--立志堂 2008年2月25日 (月) 14:10 (UTC)返信

秀逸な記事

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この記事を通りすがっていい記事だと思い、秀逸な記事候補に推薦しましたが、出典や太字・リンクなどについてWikipedia:秀逸な記事の選考/関ヶ原の戦いで投票が行われていますので、目を通していただければいいと思います。投票に参加するでもよし、加筆されるでもよしですが、参加されるとありがたいです。--蚯蚓 2009年3月24日 (火) 10:57 (UTC)返信

この記事について。

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すこし読んでみましたが、疑問になったことをいくつか。 まず、関ヶ原の戦いは日本史において有名な事柄であり、日本において歴史教育を受けた人やあるいは他国で日本史を学んだことがある人ならば説明不要といってもいいくらいです。 しかし、それは反面、日本史を知らない人にとってはこれは何のことか?これがどれほどの重要性を持つ事なのかの説明努力が不足している感じがいたします。 例えば、参考資料についてですが、最初に掲示されている参謀本部『大日本戦史 関原役』。調べてみたところ明治44年刊行の書籍のようですが・・・。まずこれについての説明がありません。この書物は何か?どこに所蔵されているものか?この書物のどの文章からこの記事内のどこにそれを書き込んでいるのか?不明です。他の参考文献もそれぞれ並べるだけではなくそれについての説明が必要と思われます。

また、古文書から引用している節がありますが、例として、『慶長年中卜斎記』『寛政重修諸家譜』などこれに書かれているとしてありますが、それについての典拠がありません。また、寛政重修諸家譜などは全部で1,530冊もある膨大なものでなおかつ古文書であり、一般人にはとても参照できるものではありません。専門家にさえわかれば良いという記事作りはどうかと思います。この様な古文書を引用する場合、一般人にもわかるようにする努力が必要と思われます。また、ウィキペディアの他言語版への配慮も必要です。

脚注についてもですが、そのほとんどが記事の補足にしかなっておりません。補足と参照元を分けて書く事が大事ではないでしょうか?

古文書などの場合は、『これは江戸時代に書かれたものであり、現在は国会図書館に所蔵されている。その資料の●の箇所に記載されている。またほぼ同じ内容の文章が○○という書籍にも引用されている○○ ISBNは○●』 など出来る限り多くの人に記事の各文章の裏付けが出来るようにしてはどうでしょうか。また、古文書は著作権フリーにもなっているでしょうからウィキソース化するのもひとつの手です。

次に、この記事は現在の岐阜県関ヶ原町での戦いであると定義していますが、そこに同時期に行われた東軍と西軍の戦いがあるのもどうかと思います。関ヶ原の戦いとは関係ないとはいいませんが、この節は最小限に留めて分割してはどうでしょうか。横の情報ボックスの内容とも矛盾が生じております。--Chacmool 2009年7月4日 (土) 20:22 (UTC)返信

関ヶ原

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2009/09/15→火曜日 2009/10/21→水曜日(グレゴリオ暦?のほう) 質問! グレゴリオ暦?てなんですか。 グレゴリオ暦?使っているんですか。 --121.92.67.139 2009年9月3日 (木) 09:26 (UTC) --121.92.67.139 2009年9月3日 (木) 09:24 (UTC)返信

リンク先の記事→グレゴリオ暦をしっかり読んでください。1600年9月15日_(旧暦)太陽太陰暦表記)をグレゴリオ暦に換算すると1600年10月21日になります。また、2009年ではありません。グレゴリオ暦と太陽太陰暦の区別くらいできるようにしてください。--Wushi 2009年9月3日 (木) 11:45 (UTC)返信

統合提案

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四国征伐からこちらのページへ、『毛利輝元の四国攻め』の節を移動することを提案します--秋田城之介 2010年2月5日 (金) 15:26 (UTC)返信

基本的に地方戦役は詳しい内容を別項としていますので、リンクさせるだけで十分かと思います--HI 2010年2月6日 (土) 03:01 (UTC)返信
四国征伐の項において、転記・分離すべきだという意見が多数を占めたため、ここで提案することになったのですが、ここでの記載が無理になった場合、毛利輝元の項など他の項への転記を視野に入れなければいけません。--秋田城之介 2010年2月8日 (月) 01:16 (UTC)返信
それでしたら新規ページの作成で良いかと思います。--HI 2010年2月8日 (月) 02:50 (UTC)返信
わたしもHIさんの意見に賛成で、新規分割でいいと思います。東北地方ならば慶長出羽合戦、近畿地方ならば大津城の戦い田辺城の戦い、九州地方ならば石垣原の戦いが例として挙げられます。分割する場合の記事名は、ノート:四国征伐でやってください。--Wushi 2010年2月11日 (木) 08:10 (UTC)返信

ノート:四国征伐では、新規立項には否定的な意見もあります。私自身は新規立項でも良いかな、と思っておりますが、これを推すのであれば、ノート:四国征伐でコメントして頂ければ、と思います。--秋田城之介 2010年2月13日 (土) 08:54 (UTC)返信

当該記事を確認したところ、新規立項の反対は改名の一環での話題なので、本稿の延長線としてのコメントは難しいと思います。--HI 2010年2月13日 (土) 13:03 (UTC)返信
改名とは別々で進めております。こちらで反対して、向こうで何もコメントされないのでは、議論に齟齬が出ます。私としては、転記・新規立項に関する議論に加わっていただきたいところであります。--秋田城之介 2010年2月14日 (日) 15:50 (UTC)返信
議論が改名をするなら転載・新規立項の必要はなし、改名をしないなら必要ありとなっているので、まずそちらの議論が収束しないと話がこじれるだけです--HI 2010年2月15日 (月) 00:25 (UTC)返信
現在は「議論が改名をするなら転載・新規立項の必要はなし、改名をしないなら必要あり」という論調の方も居ますが、元々は別々の議論でした。ノート:四国征伐での過去の議論を見ればおわかりになると思います。ただ、現在こちらの方で話がこじれていますので、この話し自体先延ばしになってしまいそうな気がします。お騒がせして申し訳ないです。--秋田城之介 2010年2月19日 (金) 15:06 (UTC)返信
四国征伐#毛利輝元の四国攻め(関ヶ原の戦い)の部分を四国征伐の付属記事として加筆したものです。本記事に四国地域の戦いへの記事リンクを追加しました。ご確認下さい。
なお、関ヶ原の戦いの記事が肥大傾向な為、本戦記事を主題として周辺戦はリンクで別記事とするとの方針について了解しました。現在四国征伐は改名投票中でありその後に関ヶ原の四国部分を独立させるかの議論が再開される情勢と思われます。
いずれにしろ、リンクしたことですし関ヶ原四国部分としての記事の妥当性や本記事と四国征伐側とのの比重関係などのチェックをお願いします。--Yasumi 2010年2月26日 (金) 23:52 (UTC)返信

分割提案

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本記事「関ヶ原の戦い」は、分量がすでに11万バイトを越えているわけですが、影響の甚大さから言っても、全国規模で戦闘が繰り広げられたことから言っても、今後、さらに加筆されることも予想されます。そうしたなかにあって、ゲームも含めた創作作品に一節が設けられていることに違和感があります。史料をもとに史実を追究する記事とフィクションも含めてエンターテイメイントを追究する記事とは、やはり切り分けるべきではないでしょうか。そのように考え、本記事から「関ヶ原の戦い#関ヶ原の戦いに関する創作」節の分割を提案します。この分割提案と同時に、「本能寺の変#フィクションにおける本能寺の変」にも分割提案を出しました。議題は、

  1. 分割の是非
  2. (分割を是とした場合)分割後の新記事=フィクションを扱った項目の記事名

です。 一括してノート:本能寺の変/過去ログ1#分割提案の方で議論したいと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。--Chokorin 2010年8月6日 (金) 20:41 (UTC)返信

提案

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この記事を「関ヶ原の役」に改名移動することを提案します。--三階菱 2010年8月9日 (月) 10:51 (UTC)返信

  反対 以前ろくすっぽ議論することなく、記事を移動した方ですね。なぜ、改名する必要があるのか合理的な説明を提示して頂きたい。戦国から江戸時代にかけての日本史研究などで、「関ヶ原の役」にするのがふさわしいという研究の累積でもあるのか?それが出来ないならば却下です。1000ページ以上も関ヶ原の戦いでWikipedia内でリンクしているのにそれを改名するとしたら、そのためにBot動かして、リダイレクト回避をしないといけないし、情報資源の無駄です。--Wushi 2010年8月9日 (月) 11:28 (UTC)返信
(保留)論理と論拠が提示されていない為、現時点では改名には賛同出来ません。--Yasumi 2010年8月13日 (金) 20:49 (UTC)返信

関ヶ原の役という呼び方は、より学術的に正確だと思います。リンクやリダイレクトがメンドウだとか、そういったことは反対理由になっていません。--三階菱 2010年8月15日 (日) 12:19 (UTC)返信

だからさぁ、学術的に正確だというならば、その論文でも列挙してくれないかな。ちなみに山川出版社『日本史B用語集』は関ヶ原の戦いです。--Wushi 2010年8月15日 (日) 12:24 (UTC)返信
教科書を参照されても困りますねえ。--三階菱 2010年8月19日 (木) 09:55 (UTC)返信

  反対 出典が示されず、根拠無き提案。「関ヶ原の役という呼び方は、より学術的に正確」であるなら、なぜそうなのか論文なり書籍なりを提示しなければならない。--Watchdog daemon 2010年8月22日 (日) 03:27 (UTC)返信

そもそも参考文献の題名に「関ヶ原の戦い」は無いんです。「関ヶ原の役」か「関ヶ原合戦」。ここは参謀本部の「関ヶ原の役」に準拠するのが妥当でしょう。--三階菱 2010年8月23日 (月) 10:00 (UTC)返信

  コメント(保留)記事の主要部分が『関ヶ原の役』を元に書かれているとは、本項にはありません。例え、題名どおりを準拠するとすれば「関ヶ原の役」ではなく「関原役」です。参考文献節にはタイトルと著者名だけで発行年や出版元すらないので同著者、同題名の別の文献のことでないのなら、参謀本部の『(大)日本戦史 関原役』の発行は明治26年(1893年)~明治27年(1894年)で百年以上前です。その後に再編纂版があるのかも知れませんし、一応昭和に入ってからの復刻版もありますが、二次・三次資料としての別文献が引用していたようにも読めますし、この文献自体が学術的にどう評価されているのか、日々、新しい発見・解釈がなされ、反映されている学術研究の場において、現在まで正しいものとして継承されているという論拠に足りうる文献なり論文なりを示していただかねば、学術的に正しいとは認定されがたいと思います。--ジャムリン 2010年8月23日 (月) 11:49 (UTC)返信

そもそも『(大)日本戦史 関原役』が参考文献に加わったのは2009年3月24日 (火) 11:30時点における版([2])からですが、参考文献節に加えた蚯蚓氏の投稿も、秀逸記事への推薦に当たっての問題点を埋める形になっており、、履歴を追うと、書名は違っていますが『大日本戦史 関原役』(『日本戦記』?)に該当すると思われる文献からの引用がが本文中に出てくるのは2004年3月8日 (月) 13:01時点における版[3]からで、その時点の引用部分も、現在版の引用部分も布陣や動員人数についてのもので、記事の一部にすぎないように読めます。その引用分だけをもって、本項が『(大)日本戦史 関原役』が元に書かれていると断ずるには弱いのではないでしょうか。

「関ヶ原の役」の学術的正当性の論拠を検証できる文献・資料の他、本項記事の元が『関原役』が参考であるということが重要であると主張するのであれば、正しく脚注に加えてからの話になると思います。--ジャムリン 2010年8月23日 (月) 11:49 (UTC)返信

  コメント(保留)本来この手の名称を規定すべき学会がその必要性すら理解していない現状では、いくらここで議論しても無駄でしょう。西洋軍事史では戦争(war)と戦役(campaign)と戦闘(battle)の区別がありますが、本邦ではその様な分類自体が理解の範疇外にあるのが現状です。何しろ戦前ですら「戦争」と「戦役」の区別ができていないのが実情ですし。--HI 2010年8月24日 (火) 03:12 (UTC)返信

まーたしかに学会で規定されてないでしょうね、だから「関ヶ原の戦い」である必要性も無い。しかし「××の役」という名称は増えてきてます。--三階菱 2010年8月28日 (土) 11:21 (UTC)返信
つまりどの名称も正しく、またどの名称も正しくないのです。どれが正しいというのはどの様な理由を以てしても主観的なものであり、客観的なものはありません。つまり最初に記事を書き、記事名を定めた者勝ちということです(勿論、ある程度は認識されている必要がありますが)。--HI 2010年8月28日 (土) 11:41 (UTC)返信
HIさんに。恣意的に記事名を定めてよいかのような発言には賛同できません。jaWPの信頼性の向上に関心が無いのであれば、jaWPへの参加をお控えください。また問題になっているのは「戦争(war)と戦役(campaign)と戦闘(battle)の区別」などという問題でもありません。見当違いな発言で議論をミスリードするのはご遠慮ください。
三階菱さんに。参謀本部編の日本戦史に準拠するといいながら該当する書名と提案内容が一致していませんがどういうことなのでしょうか。また、書名や論文名だけが基準であるかのような主張にも違和感を感じます。書名や論文名に無くとも、書名や論文の中での語用をなぜ考慮しなくてよいのでしょうか。
いずれにせよ「××の役」という名称は増えてきているというのであれば、その根拠を示してください。明言している以上、何らかの根拠があるはずですよね。示せないのであればあなたの提案を採用することは出来ません。--Watchdog daemon 2010年8月28日 (土) 22:59 (UTC)返信
  コメント山川出版社『日本史B用語集』を例に出したのは、高校日本史の執筆陣が日本史を専門にしている大学教授陣だからです。彼ら/彼女らが人口に膾炙している関ヶ原の戦いを教科書執筆に採用している以上、記事名の変更の必要性は特に感じません。三階菱さん、大和朝廷がヤマト王権に変更したような論文を、この関ヶ原の戦いの記事でいい加減に提出してくれませんか? 学会でも主流になっているような論文を挙げられない以上、くどいようですが情報資源の無駄です。--Wushi 2010年8月29日 (日) 12:13 (UTC)返信

グーグル書籍検索でも、「関ヶ原の戦い」約6000件に対して「関ヶ原の役」約5600件と確実に増えてきています。なお、教科書は最新の学説や研究結果を反映していないのであまり参考になりません。--三階菱 2010年9月2日 (木) 03:10 (UTC)返信

「「関ヶ原の戦い」約6000件に対して「関ヶ原の役」約5600件」から示されることは「「関ヶ原の戦い」の方が「関ヶ原の役」より使われている」ということですね。言うまでもなく増減は全く示されていません。「教科書は最新の学説や研究結果を反映していないのであまり参考になりません」が万が一本当だとしてもなぜその最新の学説や研究結果を示さないのですかね。--プリズム11 2010年9月3日 (金) 21:18 (UTC)返信
  反対 「関ヶ原の役」の方が有力だ、とする出典が未だに示されていません。上記でも複数の方がおっしゃっていますが、最近の学説や研究で「役」を使う傾向にあるのなら、それを示した学術論文や研究文献等を提示してください。それが為されていない現状では反対です。
あと、Google書籍検索は、全ての書籍が検索できるわけではないため、参考にはならないと思います。それに、プリズム11さんもおっしゃっているように、「「関ヶ原の戦い」約6000件に対して「関ヶ原の役」約5600件」を、「「役」が増えてきている」と判断することは不可能です。6000:5600というのはあくまで三階菱さんの検索時点の数字であり、「役」の割合が増えているかどうかは分かりません。もしかしたら三階菱さんの言う通りかもしれないし、そうではないのかもしれません(戦い」と「役」の割合がそれほど変化無く推移してきた場合や、あるいは「役」の割合が減少して「戦い」の方が増えた場合も考えられます)。「役の方が増えてきている」というのなら、それにもGoogle検索ではなく、そのことについて触れている出典が必要です。--松茸 2010年9月4日 (土) 07:23 (UTC)返信
  コメント「教科書は最新の学説や研究結果を反映していないのであまり参考になりません」のであればなおのこと、「最新の学説や研究結果を」是非ともお示しください。
Google書籍検索は私もやってみて同じ結果を得ました。しかし、検索結果の中には小説や歴史読み物、ビジネス書、「ナントカの謎」みたいな類の本も多数含まれています。三階菱さんご自身が「学術的に正確」であるかどうかをポイントとして改名を提案されるのであれば、根拠として引き合いに出すには不適切だと考えます。--Watchdog daemon 2010年9月4日 (土) 08:58 (UTC)返信
  反対 まぁ、これまでの発言から当然皆様△11の姿勢は理解されていると思いますが、改めて反対を表明しておきます。またノート:長州征討でも全く同様に「提案をしながら根拠を示さない」態度が明らかになっておりますので、お時間のある方は情報資源の無駄を防ぐため三階菱さんの履歴を監視し、同様の根拠なき提案があった場合こことノート:長州征討のリンクを貼って頂けたらと思います。△11のことで言うとWushiさんがノート:長州征討に記載されたリンクでこちらにお邪魔しています。--プリズム11 2010年9月4日 (土) 08:07 (UTC)返信
ここでも嫌がらせ的な行為を推奨しているのですか?そもそも△11って何ですか?--三階菱 2010年9月7日 (火) 09:00 (UTC)返信

  コメント 根拠となる出典はまだ ですか?--ジャムリン 2010年9月7日 (火) 10:40 (UTC)返信

国立国会図書館で検索すればわかりますが、2000年以降に出版された「関ヶ原の戦い」をタイトルや主内容に含んだものは「名称の決断シリーズ」「歴史群像シリーズ」やマンガ、地方の教育委員会が出版したものなどだけで学術的なものは皆無です。--三階菱 2010年9月10日 (金) 07:18 (UTC)返信

三階菱さんのおっしゃる「国立国会図書館で検索」というのは、「実際に国会図書館に足しげく通って資料を何十、何百冊と精査(検索)した」ということではなく、NDL-OPACの検索結果のことですよね? でしたら、はっきり言ってそれは「関ヶ原の戦い」が近年学術的に主要ではないという論拠に全くなり得ません。NDL-OPACで分かるのはあくまで本のタイトルと、章のタイトル(こちらに関しては一部の本のみ)です。「本のタイトルには「関ヶ原~」を含んでいないが、関ヶ原の戦いについて大きく触れている本」、「NDL-OPACに章のタイトルが掲載されていない本」、「NDL-OPACでは検出されない学術論文」も多数存在するわけであり、正確な内容についてはやはり現物を見るしかありません(それが「先行研究」というものです)。こういったことをネット検索だけで済ませるのは大いに問題があるので、何度も言うようですが主張の論拠となる「学術論文、研究資料」の類を、タイトルだけではなく内容も含めて提示してください。根拠の希薄な主張を繰り返したり、他者の行動に突っ込みを入れたりするよりも前に、まずは実際の図書館等に赴き、根拠になる文献を探し出さないと、いつまで経っても賛同を得ることは無いと思います。
それと、NDL-OPACの検索結果によるならば、「2000年以降刊行」で「関ヶ原の役」がタイトル等に含まれるものは、上記でも言われている参謀本部の『関ヶ原の役』の新装本、これ1冊しかありません。また、「関ヶ原の戦い」については「学術的なものは皆無」とおっしゃいますが、例えば東京大学史料編纂所教授・山本博文氏の著『江戸時代の国家・法・社会』は学術的な書籍である部分もあるようです(実際にこの本を見ていないので「関ヶ原」の部分がそうであるとは断定はしませんが、Amazonの内容紹介によると「論文」「学会報告」など学術的部分が含まれているそうです)。上記の三階菱さんの発言については、ちょっと三階菱さんの我田引水的な解釈が入っているように感じます。--松茸 2010年9月10日 (金) 17:18 (UTC)返信
競合しましたがそのまま。
その1。国立国会図書館の書誌一般検索にて検索をしてみました。
検索対象を「和図書」、出版年を「2000年以降2010年まで」として、「関ヶ原の戦い」「関ヶ原の役」でそれぞれ検索したところ、
  • 「関ヶ原の戦い」17件
  • 「関ヶ原の役」1件
という結果を得ました(ちなみに、「主内容」による検索というのは何のことでしょうか? )。
17件につき、「「名称の決断シリーズ」「歴史群像シリーズ」やマンガ、地方の教育委員会が出版したものなどだけで学術的なものは皆無」と言っておられます。松茸さんご指摘の山本博文氏の著書は別として、一応正しい。しかし、別の場所では地方史であっても根拠になると言っておられたかに存じます。なぜ判断基準が異なるのでしょうか?
その2何が増えているのでしょうか。「増えている」というのが比較により導きだされる事柄である以上、かならずどこか比較対象となるべき時点なり期間での検索結果についても提示すべきです。
その3。「学術的に正確」云々というのであれば、学術誌に掲載されたいわゆる雑誌論文の動向についても当然検討するべきですが、その件について何もお話を頂いておりません。どうなっていますでしょうか? むしろある意味でこちらのほうが重要とも言えます(大概の研究者は著作を刊行できません)。
なお、ご自身の主張に説得力が欠けていることを他者に責任転嫁する(「嫌がらせ」云々)はお控えいただけると幸甚に存じます。--Watchdog daemon 2010年9月10日 (金) 17:25 (UTC)返信
三階菱さんはノート:九州の役マトモな反論は返って来ないようなので改名議論の早期終了をすべきです。項目名ばかりに拘るのは不毛です。と書かれています。ノート:九州の役においてどうであるかは知りませんが、少なくともここにはぴったりだと思います。提案者ご本人がそのように思ってらっしゃるのですから、ここは早期終了で宜しいでしょう。--プリズム11 2010年9月11日 (土) 02:22 (UTC)返信
早期終了に賛成。三階菱さんがノート:長州征討ノート:九州の役矛盾する議論を展開する、こちらが要求している先行研究をまともに提示しない以上、これ以上の議論はくどいようですが情報資源の無駄です。改名提案に賛成意見が出ないこともその証左です。早期終了に賛成します。--Wushi 2010年9月11日 (土) 07:37 (UTC)返信

同じく早期終了に賛成

論理が端から矛盾しており、このような整合性の無い主張とでは議論をする必要性以前に、議論すること自体が不可能です。反対意見に対する反応も、反対意見を述べた利用者に対する攻撃に過ぎず、自らの説得力の無さを他人に転嫁しようとしています。「三階菱さんの改名提案はOPENしない方がいいくらいの話です」というプリズム11さんのご意見にも併せて賛成します。--Watchdog daemon 2010年9月11日 (土) 13:57 (UTC)返信

早期終了に賛成。既に最初の提案から1ヶ月以上が経過しているにも関わらず、全く論拠を出さないようでは、今後も進展する見込みは無いものと思われます(このままでは賛同者を得られるわけがありません)。それに加え、他のノートとの一貫性の無い態度もいただけませんし。--松茸 2010年9月11日 (土) 16:53 (UTC)返信

  コメント ここは私を吊るし挙げる場ではない。提案の中身をマジメに見ていただきたいです。--三階菱 2010年9月15日 (水) 06:55 (UTC)返信

早期終了を提案しているのは、1ヶ月以上経過した現在になっても、未だもって改名の根拠が明白ではないからです。まずは提案者として他の方々の質問に答えていただけないでしょうか。そうしないと全く話が進みません。質問は大体以下の通りかと思います。

  1. 「“関ヶ原の役”という呼び方が学術的により正確だと思う」の根拠は何ですか? 本記事の主要部分は参謀本部の『関原役』だけで書かれているわけではないようなので、最新の学説や研究結果が掲載されており、学会で主流になっているような学術論文や研究書籍などの出典を挙げてください。その件に関する、学術誌に掲載された雑誌論文の動向についてもお答えください。
  2. 「“××の役”が増えてきている」とする根拠は何ですか? (Google書籍検索では増減は分からないので根拠にはなりませんし、検索結果に小説とかビジネス本とか謎本など、出典として使うのに問題のある書籍も一緒にひっかかります。また、国会図書館の検索も、前述したように「関ヶ原の戦い」の使用例が近年少ないという根拠になりませんし、「役」が多いという根拠にもなりません)
  3. ノート:九州の役ノート:長州征討との発言の矛盾が指摘されていますが、結局のところ地方史は「学術的な文献であり、名称の根拠に使える」と思っているのか、「学術的なものではなく、名称の根拠には使えない」と思っているのか、どっちなのでしょうか? また、何ゆえにノートによって相反しているような発言をされたのでしょうか?

以上の点、ご回答よろしくお願いいたします。--松茸 2010年9月15日 (水) 13:46 (UTC)返信

「関ヶ原の役」にしたほうが、戦闘に至る経緯、実際戦闘に至っていない部隊も含めての軍動員を表すには適切です。また、「小田原の役」「九州の役」などを見てもわかるように、Wikipediaでも学問上でも戦役を「の役」とすることが主流であることは自明です。三点目のノートによる相反?というのは理解できないですが。--三階菱 2010年9月22日 (水) 03:35 (UTC)返信
まだ根拠を出さずに主張だけしているんですねぇ。真面目に対応している方への嫌がらせですか?
個人的には、そういうあなたが「の役」を主張している以上「小田原の役」「九州の役」等の改名を検討した方が良いと思いますね。--プリズム11 2010年9月22日 (水) 15:50 (UTC)返信
マジメでないのはあなたの方でしょう。『三階菱が主張しているから~~に反対』などというのは失礼ですが幼稚な考えですし、実際にも支持されないでしょう。--三階菱 2010年9月26日 (日) 06:13 (UTC)返信
気のせいか、三階菱さんは全く質問に答えておられないように思えますので、きっちりとお答えください。
  1. 「関ヶ原の役にしたほうが(中略)適切です」「学問上でも(中略)自明です」の出典をお願いします。三階菱さん個人の考えはもういいですから、「正確」「適切」「主流」「自明」だとするならば、その出典となる近年の学術論文、研究文献(著者名、書籍名(あるいは掲載雑誌名)、刊行年、ページ数を添えて)を提示してください。それが提案以来1ヵ月半経つ現在までずっと存否さえ曖昧なままですので、それを答えてくださらないと、この提案自体が三階菱さんの個人的な思いつき(独自研究)なのではないかと疑ってしまいます。
  2. 「~の役が増えてきている」という点にも出典をお願いします(こういった事の学術研究において、「戦い」や「役」などの名称がどのように変遷したかを詳述している先行研究・研究史整理があるものが望ましいです)。「Wikipedia上で」の事象は出典になりません。他の記事で何件「役」があろうと、この記事がどうかは別問題です(それに、もしWikipediaでの事象を考慮するとしたら、Category:日本の戦い (時代別)のリンク先を見れば分かるように、「~の役」よりも「~の戦い」という記事名の方がはるかに多く、逆に「戦い」の方が主流だということになりますが)。
  3. 矛盾については次の通りです。これを見ると、三階菱さんが自分の主張に都合のいいように、記事ごとに意見を変えているのではないか?と思ってしまいます。下記のような点について、合理的な説明をお願いします。
    ノート:九州の役では、項目名ばかりに拘るのは不毛です。とおっしゃっているのに対し、こちらでは出典すら不明確のまま改名に固執している
    ノート:長州征討では、地方史を主張の根拠としているのに対し、こちらでは「地方の教育委員会が編集したもの」は学術的な文献ではないとし、地方史に関する意識が不統一
以上の点、よろしくお願いいたします。--松茸 2010年9月23日 (木) 04:53 (UTC)返信
松茸さんと同じ意見です。質問に対しまともな回答をしてください。付け加えてその期限を明記してください。--Wushi 2010年9月23日 (木) 11:23 (UTC)---(時系列に追って意見を出しているので場所を戻し)--Wushi 2010年10月4日 (月) 12:56 (UTC)返信

(コメント) まず、近年「関ヶ原の戦い」と題した本より「関ヶ原の役」としているものが(趣味・娯楽用を除けば)多くなっているし、戦役として実際の戦闘をしていない部分(広義の関ヶ原)まで正確に定義するのであれば「~の戦い」より適切です。また、国会図書館の検索を全面的に信用するわけではないです、あくまで目安です。それから地方の教育委員会が編集したもの=地方史ではないですから、これに関するスタンスの違いは矛盾するものではないです。--三階菱 2010年9月26日 (日) 06:13 (UTC)返信

地方史に関しては一応分かりました。それで、「近年「関ヶ原の戦い」と題した本より「関ヶ原の役」としているものが(趣味・娯楽用を除けば)多くなっているし、戦役として実際の戦闘をしていない部分(広義の関ヶ原)まで正確に定義するのであれば「~の戦い」より適切です」の部分の出典は何でしょうか?(三階菱さん個人の意見ならば「独自研究」です) 「役」が正確・適切だと言うのであれば、出典となる論文名、参考文献名を挙げて下さい。また、「多くなっている」と言うのであれば、以前と現在での数(あるいは比率)の比較検証がなされたものが必要と思います。そのことが一番肝心なのですが、いい加減、適切な論証を出して下さい。(本来なら提案の最初から用意しておくべきと思いますが、それはさておき)出典提示を今年の10月末日までにお願いします。それまで待っても出なければ、改名せず終了が妥当と思います。--松茸 2010年9月26日 (日) 06:29 (UTC)返信
  コメント まず「広義の関ヶ原」において「日本全国各地に動員されたが戦闘に至ってない部隊」が数多く存在するという事実があります。また、Yasumiさんも(定義変更の必要性も含めて)触れていますが、それでも理解できないというのであればあなたの理解力に疑問が出てきます。戦いは戦闘や戦闘局面であり、役というのは戦役・軍事動員です。それは、戦闘戦役のページに記載されています。これが独自研究と言うのであれば、あなたは両ページの削除を提案すべきであると思いますが、違いましょうか?--三階菱 2010年10月4日 (月) 12:06 (UTC)返信
だからここはまずは「狭義の関ヶ原」についての記事なんだと思いますけど?
人の理解力を批判するということはご自分に理解力があるという主張なんでしょうが、もしそうならその理解力で、これまで皆さんが何を書かれていたか理解して対応して下さいよ。--プリズム11 2010年10月4日 (月) 12:45 (UTC)返信
で、いつになったらまともな議論ができる参考文献・先行研究が出てくるのでしょうか? また、議論を時系列に追う以上、三階菱さん、勝手に私の意見の前に意見を割り込ませないでください。--Wushi 2010年10月4日 (月) 12:56 (UTC)返信
>プリズム11氏 「地方への波及」と戦役全体について記載しているのに、この定義が狭義だと断定するのはおかしいでしょう。--三階菱 2010年10月9日 (土) 06:50 (UTC)返信
他の方も言われているように、三階菱さんには自説開陳をする前に、出典提示をお願いします。「広義の関ヶ原」云々について論じ、「役の方が適切な呼び方」だとする先行研究をお出し下さい。それを出さないと、三階菱さん個人の視点で語っている独自研究であるとしか思えません。締め切りは10月31日。あと約26日です。--松茸 2010年10月4日 (月) 15:18 (UTC)返信
戦いと役の違いについては戦闘戦役のページに記載されているもので、Wikipediaでの合意を伴った見解である。これを自説開陳と言うのは勝手ですが、それは誤った見方です。--三階菱 2010年10月9日 (土) 06:50 (UTC)返信
その戦役の概念が、この関ヶ原の記事にも適用されるかどうかは別です(その記事の概念を、全ての記事に適用させなければならない、ということはありません)。この記事が「役」とするに「正確」「適切」「主流」「自明」な出典を出してください。「学問上でも主流」とおっしゃっているのですから、論文や研究書籍などを多数挙げられるはずです。期限まであと約22日8時間です。--松茸 2010年10月9日 (土) 07:07 (UTC)返信
必ずしも、一記事の概念を全ての記事に適用させなければならないわけではないことは分かりますが、こうした見解には裏付けが有り、wikipedia上でも合意が取れているということです。なぜこの記事が特別扱いされるのでしょうか?--三階菱 2010年10月15日 (金) 04:52 (UTC)返信
三階菱さん、無意味な議論延長と妨害行為はやめてください。--プリズム11 2010年10月15日 (金) 09:17 (UTC)返信
関ヶ原について、「役」とする見解の裏づけがあるのならそれの提示をお願いします(繰り返しになりますが)。また、Wikipedia上の合意というのは一体どこで行われたものでしょうか。個々の記事に関する議論は見受けられますが、「戦役」に関する全体的な議論・合意や、さらに本記事もその対象であるとする合意が行われた様子はありません。そういった「合意」を見つけたのであれば、それが行われたノートの提示もよろしくお願いしますね(一応言っておきますが、ノート:戦役は全くもって「合意」ではありませんからね)。--松茸 2010年10月15日 (金) 16:02 (UTC)返信
本当にいつになったら出典が出てくるのでしょうか?このページ、議論が始まるまで30Kバイトしかなかったのに、三階菱さんがろくすっぽまともな議論対応していないので66Kバイトにまで膨れ上がっています。本当に情報資源の無駄です!--Wushi 2010年10月16日 (土) 14:28 (UTC)返信
松茸さんはいつまで戦役と戦闘をゴッチャにしているんでしょうか。例えば、「浅井畷の戦い」「関ヶ原の戦い」は本来並列ですが、「関ヶ原の戦い」と「関ヶ原の役」をゴッチャにしている現状では、従属記事のようになってしまっています。--三階菱 2010年10月19日 (火) 12:08 (UTC)返信
じゃあ、改名する必要は無いんじゃないでしょうか。「関ヶ原で行われた戦と、それに関連して日本各地で行われた戦を総称して「関ヶ原の役」と呼ぶ」という一文さえ入れれば済みます(勿論出典を要しますが)。また、「関ヶ原以外の各地の戦の記述が多いから」というのであれば、別記事(各戦いの記事)を新たに立てたり、別記事に内容を移動するなりしてそれらの内容を削減したり、関ヶ原で行われた戦の記述を多くしたりなどすれば良いわけです。それでよろしいんじゃないかと思いますが。
「そういうことじゃない、改名は必要だ」というのなら、その理由と、その根拠となる出典の提示をよろしく。ご自分でおっしゃるには「学問上で主流」で「増えてきている」ということなのですから、出せてしかるべきです。あと12日ですから、提示するのならお早めに。--松茸 2010年10月19日 (火) 12:53 (UTC)返信
あまり積極的に議論に参加するつもりはないので意見だけ述べますが、根本的な議論を飛ばしたまま進行しているように思えます。
現記事は「A.関が原で起きた合戦」と冒頭定義されている一方、現記事内容は「B.東軍と西軍が全国で繰り広げた戦争(関が原本戦を中心として各周辺戦を含んだ、開戦経緯から戦後処理まで)」となっているように思えます。これは現状認識として合意できる客観状況だとおもいますが、違いましょうか?
これを踏まえて考えると、三階菱さんの提案する「関ヶ原の役」はA.の定義では使用されていないように思います。したがって、もし本記事を「関ヶ原の役」へ改名するのであれば記事の定義変更が前提となるはずです。これは上の方の先行議論でも扱われている問題ですので改名議論を行う前には、この記事の定義がなにであるのかの合意が必要ではないかと。
また、それほど裏を取っていませんが「関ヶ原の戦い」にはAの意味(戦闘)のほかにも広義(拡大解釈?)のBの意味(戦争)で使われている場合もあるように思え、私は記事の定義が戦闘に留まらず、戦争であっても当面は現状記事名のままでいいんじゃないかと思ってます(小牧・長久手の戦いについても教義の合戦定義から広義の戦争定義への呼称拡大している感触としては同様)。
それから戦争記事の四国攻め九州の役小田原の役文禄・慶長の役についての先行議論は、それぞれ個別の背景に基づいてのものであり、中立性・客観性を正面に押し立てた改名議論は行われていないように思います。--Yasumi 2010年9月23日 (木) 11:25 (UTC)返信
話を勝手に捻じ曲げないでください。何を理由としての提案なのかを含めて、一切の根拠が提案者が提示しておらず不明なのが「客観的」な現状です。それを「主観的」に忖度して「根本的な議論」を云々しているのがYasumiさんの発言であるに過ぎません。「あまり積極的に議論に参加するつもりはない」のなら、議論をますます混線させるだけの発言は控えていただき、できれば有害無益な発言は撤回してください。--Watchdog daemon 2010年9月23日 (木) 12:01 (UTC)返信
定義に関する考察は重要だと思うのですが、それに触れられて都合が悪いことでもあるのでしょうか?少なくとも特定の利用者に対する議論妨害と取られかねないと思いますよ。--三階菱 2010年9月26日 (日) 06:13 (UTC)返信
議論を脱線させる発言を制止することは何ら問題の無いことです。他人の発言に突っ込んでいる間に、早いところ文献を挙げてはいかがでしょうか。--Watchdog daemon 2010年9月26日 (日) 11:58 (UTC)返信

  コメント考慮すべきガイドラインの Wikipedia:記事名の付け方においては「もっとも一般的に知られている名称を付ける。 」との指針により記事開設当初から、一旦のコメントアウトを経て2006年12月16日 (土) 09:31時点における版[4]から、歴史事件の項で例として「関ヶ原の戦い」があげられています。一応念のため。--ジャムリン 2010年9月28日 (火) 01:54 (UTC)返信

ノート:九州の役にて三階菱さんより改名の根拠を提示してください。なぜ今までの議論を読もうとしないのでしょうか?という発言がありました。ようやく根拠提示の大切さを理解されたようですので、こちらにも間もなく根拠の書き込みがあると思われます。--プリズム11 2010年10月9日 (土) 22:38 (UTC)返信

  終了 収拾がつかないので、ひとまず提案を終了したいと思います。未だに戦闘と戦役の区別を付けていない方が多く、まずそこの部分からWIKIPROJECTで議論した方が良いように感じました。前提の理解がないとやはり難しいのでしょうか。--三階菱 2010年10月26日 (火) 10:09 (UTC)返信

  コメント ノート:長州征討にも書いていますが、三階菱さんが先行研究・参考文献をまともに提示しなかったことに根本原因があるのではないのですか?他人への責任転嫁はしないように。--Wushi 2010年10月26日 (火) 12:23 (UTC)返信
結局、期限前に終了ですか。それは別にいいのですが、議論が進展しなかったのは三階菱さんが何故「役」に改名すべきか、という論拠を提示しなかったためだと思います。そもそもこのことは、ろくに議論することも無く強引に記事を移動したのが発端ですし、8月9日の提案開始時点でも、それから今日に至るまで78日も経過しても、主張の論拠となる出典を提示しなかったのも問題だったと思います(以前も言いましたが、本来は開始時に出典を提示して提案すべきだったと思います。図書館等で本を調べたりしていないように思えたので、調査のため1ヶ月間の猶予期間を設けたにも関わらず、結局提示されませんでしたね)。
三階菱さんは「役」の語を使うことについて「より学術的に正確」「増えてきている」「適切」「学問上でも主流」「裏付けがある」などとおっしゃられてきましたが、その論拠を尋ねられても一切提示しなかったわけで(Google書籍検索や、NDL-OPACは都合よく解釈しているだけでしたし、参謀本部編の出典は明治時代刊行ですので、現在でも「主流」とは言えないでしょう)、そこが一番の問題だったのです。「他者が理解していない(くれない)から」ではなく、三階菱さんに「自分の考えの論拠を提示することで、それを他者に理解してもらおうとする意思」が見られなかったことが原因でしょう。
もちろん、再提案や別の所での議論を妨げはしませんが、その際にはきちんと出典を事前に用意し、提示するよう求めます(「役の方が主流で適切」というのが「三階菱さん個人の考え(独自研究)」で無いのであれば)。そうでないと、いくらやっても同じ結果に終わると思います。--松茸 2010年10月26日 (火) 12:25 (UTC)返信
ノート:長州征討と同様、責任転嫁しての終了になりましたね。「前提の理解」?どの口が言うですか。--プリズム11 2010年10月27日 (水) 12:04 (UTC)返信

松尾山には城があったのでは?

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 松尾山には以前から城があり、「関ヶ原の役...旧参謀本部編纂...徳間書店」 にも「十四日、松尾山にのぼり、織田信長のとき、不破河内守(光冶)が築い た古い塁砦に陣営をはった。」とあります。(第一篇・第五章 本戦・1 本戦 前の経過・西軍の2・秀秋、病気で謀反の疑いをかけられる・204ページ)  山にたんに布陣するのと城に入城するのとでは意味が違います。  「関ヶ原への転進」の項にある「この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を 敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えた。」というのは「この 14日には、小早川秀秋がそれまで松尾山城にいた伊藤盛正を追い出す形で無血 入城した。」  なお、この時、小早川秀秋を西軍とするのは、西軍側からみた一方的な解釈 で、松尾山城に入城したことで東軍になったとも考えられる。  この松尾山城までが西軍の鶴翼の陣であり、毛利隊が布陣したところまでと するのは、陣形のことを知らないとしか言いようがありません。  松尾山城を小早川秀秋が奪ったことで、鶴翼の陣の一角が崩れたのでは?  小早川秀秋が裏切ったというのであれば、最初に東軍を裏切ったのは大谷吉 継であり、小早川秀秋は東軍の裏切り者を成敗したにすぎません。  署名ってどういうふうに入れるのか分かりませんので、適当に入れておきま す。昿野洋一2010年8月30日

徳川秀忠の遅参が無視されている

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 関ヶ原に徳川秀忠の到着が遅れていたことは、徳川家康以外、 西軍も東軍の武将も知らず、すぐに来ると思っていたはずです。  秀忠の部隊3万人が加われば、徳川家だけで6万人ぐらいに はなり、東軍は圧勝する勢いだったでしょう。  このことが無視され、秀忠が来ないことを前提に、あたかも 兵数が拮抗しているように創作するのは間違いです。また、松 尾山城に入城した小早川秀秋が出陣しなかったのも、秀忠の到 着を待っていたと考えれば当然です。  こうしたことからも全体を見直すべきではないでしょうか?  署名ってどういうふうに入れるのか分かりませんので、適当 に入れておきます。昿野洋一2010年8月31日

コメント依頼について報告

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ここでの三階菱さんの行為について、コメント依頼/三階菱を提出しました。皆様の参加を宜しくお願い致します。--プリズム11 2010年10月31日 (日) 06:35 (UTC)返信

「罠」説について

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小説や子供向けの本では、家康があえて敵対勢力を決起させるように仕向けたとする記述が多く、現在の記事もそのように書かれていますが、史学上の通説なのでしょうか?--Extrahitz会話2012年4月1日 (日) 02:26 (UTC)返信

この場合の通説は世間一般に一番良く知られている「日本戦史」の説となります。日本の史学はこのような軍事学的案件に関しては未だ真面目に取り組んでいませんので、史学上の通説は存在しません。--HI会話2012年4月1日 (日) 11:38 (UTC)返信

要調査・修正点

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  • 「7月1日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い」とありますけれども、ネット上にはこの出来事を7月5日とする記述が多いようですので、この日付が正確なのかどうかを一度調査されたほうがよろしいかと思います。
  • 「この動きは当初三奉行側に通牒されておらず、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り」とありますけれども、三奉行の1人、増田長盛が「この動き」の参加者であるとする前の段落と内容に矛盾が生じているようです。

--14.3.192.35 2016年9月7日 (水) 23:21 (UTC)返信

記事のスリム化と精度の向上

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大幅な改変については、当然御批判もあるかと思います。ただし長文で構成された歴史関係の記事にも関わらず、その記述の典拠が一次史料なのか二次史料なのか、はたまた参考文献からなのかが明確で無い部分が多いため、現状読み手の方による記事への検証が困難です。よって一次史料をベースに出来る限り堅実でスリムな記事に改めます。これは以前よりの懸案事項であったページサイズの増大に対する対策でもあります。文字の数と記事の質は正比例しないと考えます。また関ヶ原の戦いに関しては比較的研究書籍・学術論文に恵まれているにも関わらず、それらの言説が取り入れられていませんので、その点の改善に注力し、内容に異論があった場合編集しやすい記事構成にします。以上ご理解ご協力のほど宜しくお願い致します。--Karifu seito会話2017年11月26日 (日) 12:17 (UTC)返信

  • (コメント) Wikipedia:独自研究は載せない#資料に「一次資料に記載されている情報の解釈には、信頼できる二次資料が必要です」及び「一次資料のみに依拠した大きな段落を作る場合にも慎重になってください」という記載があります。一般的に、歴史的事項について一次史料ベースの記述を行うのはウィキペディアでは危険と見なされることが多く、歓迎もされないかと思います。あまり研究がないような事項ならともかく、関ヶ原の戦いのように先行研究が多数ある記事ではなおさらかと思います。--さえぼー会話2017年11月26日 (日) 14:10 (UTC)返信
  •   さえぼーさんのコメントと重複してしまいますが、出典と独自研究についてはガイドライン「一次資料と二次資料」において「公表ずみの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません。二次資料や三次資料は、記事の主題の特筆性を立証するため、および一次資料の新規な解釈を避けるために必要です。ただし、一次資料は注意深く使えば出典とすることができます。」とあり、続いて「日記などの歴史的文書も一次資料です。」となっています。一次史料に関しては歴史の当代においての日記や書状であっても書き残した著述者の誤解や錯誤や虚偽が混じっていることも少なくはなく、「『○○記』ではこうこうである」という書き方はできても、研究結果のようには解説できないと思います。先行研究を踏まえた上で、歴史に対する多くの一次史料を含めた資料を比定・検証作業を専門とする研究者による二次資料・三次資料としての出典の上位に一次史料は、wikipediaではおけません。--ジャムリン会話2017年11月26日 (日) 17:04 (UTC)返信
  •   一次史料にせよ二次史料(編纂物)にせよ、ウィキペディアにおける「一次資料」に該当しますので、独自研究を避けるために使用は慎重であるべきだと思います。反面、「比較的研究書籍・学術論文に恵まれているにも関わらず、それらの言説が取り入れられてい」ないというのはKarifu seitoさんの仰る通りだと思いますし、Karifu seitoさんが加筆された関ヶ原の戦い#抗争の原因に関する諸説節のように、研究論文や概説書(ウィキペディアのいう二次「資」料)を出典として用いて加筆・修正していただくことは歓迎されるのではないかと想像します(できればWikipedia:出典を明記するに従ってページ番号をつけていただけるとうれしいです)。--伊佐坂安物会話/履歴2017年11月27日 (月) 11:02 (UTC)返信

御三方とも貴重な御意見有り難う御座います。現状『二次史料』の提示すら足りていませんので『一次史料』と『二次史料』をどういった扱いで記事に織り込むのか、という議論以前の段階にあり、この点改善の余地はあると考えます。ある程度の信頼性が担保出来る『一次史料』ベースの部分を既存記事の中に出来る限り織り込みつつ修正するという方向なら異論は無いものかと思います。近年の研究成果の反映という点では特に異論は無いものと考えますので順次既存記事の編集を進めていく予定でおります。以上記事の充実の為、御協力の程宜しくお願い致します。--Karifu seito会話2017年11月27日 (月) 11:54 (UTC)返信

Karifu seitoさんへ) いちおう確認しておきますが、Karifu seitoさんの言う『二次史料』とはどんなものを指していますか? 通常、一次史料といえば「福島正則宛徳川家康書状」とか「義演准后日記」などを指し、「二次史料」といえば『藩翰譜』や『関ヶ原始末記』といった史料を指すのではないかと思うのですが、これらはいずれもウィキペディアにおいて直接出典とするのは控えるべきです。研究論文や概説書が、ウィキペディアにおいて使用が推奨される「二次資料」にあたりますので、そういったものを使用していただくのが良いと思います。--伊佐坂安物会話/履歴) 2017年11月28日 (火) 03:05 (UTC)修正--伊佐坂安物会話/履歴2017年11月28日 (火) 03:17 (UTC)返信

『一次史料』『二次史料』については伊佐坂さんの解釈通りで一般的学術用語を用いたものです。出典に『一次史料』を使うか『二次史料』を使うか研究論文を使うかは記事の内容・構成次第となります。関ヶ原研究(あるいは実証史学)が史料批判を一つの軸としてきた以上、「この説は一次史料典拠、こっちは二次史料典拠」といった区別を読み手の方に示さなければならない場面は当然あるかと考えます。--Karifu seito会話2017年11月28日 (火) 12:58 (UTC)返信

抗争の背景に関わる部分を主に修正。学術的見地からの異論があるにもかかわらず朝尾論や笠谷論等「ありき」で記述されている部分は基本両論併記の形に改めています。出典の表記が曖昧であったり単に史料名を挙げているだけの部分も今後修正の対象とする予定です。--Karifu seito会話2017年12月2日 (土) 15:08 (UTC)返信

小山評定論争については議論が複雑化しているので少ない字数で要点が説明出来たか自信がありません。できれば助力願います。--Karifu seito会話2018年1月8日 (月) 10:29 (UTC)返信

15日本戦の部分を一次・二次史料ごとに記述し、あわせて布陣については関ヶ原本戦の配置の項に解説を任せる形にしました。参加兵力についても今後編集をするつもりです。皆さんのご意見ご協力を宜しくお願いします。--Karifu seito会話2018年4月15日 (日) 07:30 (UTC)返信

battle boxにおける混乱

編集

当ページでは、以前より「関ヶ原の戦い」と「関ヶ原の役」との分割提案がされていますが、war boxとbattle boxの並置から始めるのはいかがでしょうか? 

現行のbattle boxでは、兵力などは本戦のものが記述されているのに、本戦に不参戦の大名が指揮官に含まれており、混乱を招きかねません。しかし、本戦に参戦していないからといって総大将である毛利を指揮官から外すのは難しいでしょう。

「役」を記述するwar boxと本戦を記述するbattle boxを分ければ混乱は回避できそうですが、システム上可能かどうかも存じません。つきましては、実行可能性を含め、ご意見をいただければと思います。 暁屋会話2020年2月8日 (土) 14:45 (UTC)返信

Warboxは日本語版ではないようですね。申し訳ないです。Battlebox二個設置を改めて提案させていただきます。 暁屋会話2020年2月8日 (土) 15:45 (UTC)返信

暫定的に、元弘の乱を参考にBattleboxの指揮官を戦線別に分けました。 暁屋会話2020年2月9日 (日) 13:08 (UTC)返信

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