ノート:凱旋門賞

最新のコメント:1 年前 | トピック:ミルリーフの節に関して。 | 投稿者:霧木諒二

奨励協会最初の競馬について

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こんにちは。表題の件で、‎Taj Daharさんにご指摘を頂いたので、出典を読みなおしてみました。結論は2つ。1つ目、奨励協会の最初の競馬はご指摘通り、1834年5月のシャン・ド・マルスです(『華麗なるフランス競馬』p183)。2つ目、私が書いた『1834年に、かつてモンモランシー公の居城だったシャンティで最初の開催が行われた。』というのは、「(競馬場としての)シャンティイ競馬場での最初開催」でした。これが1834年5月15日です(『競馬の世界史』p176)。

私としては「シャンティイの開催が奨励協会の最初の競馬だ」と書いたつもりはないし、そこははっきりとした出典をみつけられず曖昧にしていました。というのも、『競馬の世界史』では5月15日のシャンティイ開催について詳述してあり、その後にサラッと日付の記載なしにシャン・ド・マルス開催について触れている程度です。これを読む限りでは、いかにもシャンティイ開催が先で、その次がシャン・ド・マルスっぽいのですが、「どれが最初だ」とは書いていません。(「グランプリ」についてはグラディアトゥール賞で詳述しましたが、グランプリはナポレオン時代からあったもので奨励協会がはじめたというものでもないです。ここでは「グランプリが再開され」みたいな表現にするのがより正確なのかなあと思います。)また、それよりも前の節で、1833年にブローニュの森で奨励協会がマッチレースをやったという記述があります。常設の競馬場ではないブローニュの森でのマッチレースをいわゆる「競馬」と言うのか(いや言うんでしょうけども)、もし競馬だというならこれが先です。さらに、奨励協会の「創設」は1833年11月11日とされますが、その前身は1825年頃からあって既に「競馬」をやっていましたので、どれを以って「奨励協会による最初の競馬」とするかは難しいし、本記事の全体の文脈のなかではどれが「最初」であるかはあまり重要ではないと考えました。私としては「奨励協会の最初の競馬」についての言及は逃げていたのです。今回出典をみなおして、『華麗なる~』のほうにはっきり書いてあってびっくりしました。--零細系統保護協会会話2013年5月7日 (火) 17:56 (UTC)返信

再確認ありがとうございます。“「シャンティイの開催が奨励協会の最初の競馬だ」と書いたつもりはない”むね承知いたしました。勘違いで先走ってしまっていたようで済みませんでした。
「奨励協会による最初の競馬」については、ロンシャン競馬場の加筆時にフランス語サイトを確認し、シャン・ド・マルスにおいて5月4日に行われたことを確認しています。それだけですとマッチレースが先の反証にはなりませんが、『フランス競馬百年史』(p97)に奨励協会が初めて1834年5月4日にシャンドマルスで競馬を開催してから百周年の記念に1934年5月3日に特別競走サントネール賞を行ったことが書いてありますので、私としてはこれが公式見解でもあると考えます。とはいえ、あまり重要でない点は同意します。
あと、“ここでは「グランプリが再開され」みたいな表現にするのがより正確なのかなあと思います。”についてですが、『華麗なるフランス競馬』にシャン・ド・マルスは奨励協会だけでなく国と共有していたと書かれているので、このころの「グランプリ」の主催を奨励協会がすぐに任されたのか微妙なところではないでしょうか。奨励協会がはじめたというものでもないですし、奨励協会からの文脈で出す競走ではない気もします。--Taj Dahar会話2013年5月8日 (水) 14:27 (UTC)返信

個別の馬の活躍を記すことについて

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現状の記事には、リボーやシーバードなどの個別の馬の活躍が一節として記されています。しかし、それが原因なのかシーザスターズとトレヴのようなまだ評価の固まっていない馬についてまで記述しようという弊害を生んでいるように思います(トレヴに至っては見出ししかないし)。個別の馬については、それぞれの馬の記事に任せてこの競走記事からは除去するべきか、或いは触れてももっと簡素化するべきではないかと思います。これに対するご意見をいただけないでしょうか。--けいちゃ会話2016年10月14日 (金) 23:55 (UTC)返信

外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

凱旋門賞」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月26日 (火) 21:52 (UTC)返信

「ダービー卿が登録した英オークス馬」について。

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凱旋門賞#外国馬の不在に「ダービー卿は第1回に英国オークス馬を含む2頭を登録したが結局出走させず、6年目には英国ダービー馬を登録したが凱旋門賞当日の4日前に取り消した。」という注釈があります。

しかしながら、ダービー卿が英オークスを勝ったのは1928年の en:Toboggan (horse) と1945年の en:Sun Stream のようです(日本語版記事エドワード・スタンリー (第17代ダービー伯爵) だとオークスを1勝となってるのはちょっとおかしいですね)。よって1920年の第1回凱旋門賞のときに彼の持ち馬に英オークス馬はいなかったのではないかと思うのですが、登録した馬は何だったのでしょうか。

なお「第6回(1925年)に登録した英ダービー馬」は1924年の勝ち馬 en:Sansovino (horse)ではないかと思われます。--霧木諒二会話2023年1月30日 (月) 11:04 (UTC)返信

  返信 こんばんわ。ご指摘ありがとうございます。取り急ぎ。
とりあえずの回答をしますと、『凱旋門賞の歴史』1巻のp.19(「1920年カムラッド」)には次のように書かれていました。
「パリ駐在のイギリス大使で、任期切れを間近に控えていたダービー卿は、1919年のエプサム・オークス馬キーソーと、よくいっても有能なハンディキャップ・ホースでしかないマーチアロングを登録したが、2頭ともレース当日を迎える前に回避した。」
もしかして「イギリスのオークス」と書かれていて実はヨークシャーオークスとかエプソムオークスじゃないレースだったりして・・・と思ったのですが、はっきり「エプサム・オークス」と書かれています。。。
というわけで、今回はどうも私が凡ミスをしたというわけではなさそうです。。。
en:Epsom_Oaksを見る限り、1919年の勝ち馬は(あの)en:Bayudaで、馬主はLady James Douglasですね・・・
「キーソー」がどういうスペルなのかもわからず、ひとまず今の時点ではここまでです。--柒月例祭会話2023年1月30日 (月) 13:24 (UTC)返信
追伸 たぶんきっとこの馬でしょう。en:Keysoe (horse)です。
「キーソー」で、1916年生まれで、馬主がLord Derbyです。Horse Pedigreeは「信頼できる情報源」ではないのでちょっとインチキなアプローチですけど、とりえあずこのサイトを信じるならば同馬が勝ったのは「エプソムオークス」ではなく「ニューマーケットオークス」ですね。『凱旋門賞の歴史』が間違っている(原著が間違いなのか翻訳ミスかは不明)。
ニューマーケットの「ダービー」や「オークス」は、戦時中は代替ダービーとして「英ダービー」等とみなされる回がありますが、普通に考えると「英オークス」と書いちゃうとあかんですね。(もしかすると、同馬の出生時点では第一次世界大戦中なので、なにか事情があったのかもですけど。)
en:Keysoe (horse)を読む限り、ニューマーケットオークスは晩秋(セントレジャー勝ったあと、たぶんきっとオクトーバーミーティング)開催のようです。
ちょっと今すぐには「信頼できる情報源」の点でアレなんですが、書き直しは必要のようです。--柒月例祭会話2023年1月30日 (月) 13:41 (UTC)返信
  • キーソーがセントレジャーを勝ったのは間違いないので、「前年のセントレジャー勝ち馬を登録した」とすればよく、それならば同じクラシック勝ちなので「オークス馬を登録した」とそう価値は変わらないハズ・・・ただ、「キーソーがセントレジャーを勝った」ことは信頼できる情報源が見つかるでしょうけど、「キーソーが凱旋門賞に登録した」ことは、いま時点では『凱旋門賞の歴史』しか情報源がない。オークス云々の記述に誤りがあるとしたら、じゃあ「登録した」というくだりは間違っていないのか?と考えると、ちょっと困ります。別情報源でも「凱旋門賞に登録した」ことが確認できればいいのですが・・・。--柒月例祭会話2023年1月31日 (火) 02:33 (UTC)返信
  • A Century of the Prix de l'Arc de Triomphe (PDF) (ISBN 9781785317248)という文献がありました。著者はMalcom Pannett、刊行年は2020年となっており、『凱旋門賞の歴史』とは別物のようです。上記リンクはサンプルページなのですが、その12枚め(p.17)には次のように書かれています。
With the defection of the 1919 Oaks-winner Keysoe, owned by Lord Derby(以下略)
  • なんかここを読むと、やっぱりキーソーが「オークス馬」と紹介されています。
  • (A)同書が『凱旋門賞の歴史』を孫引きした。作者はKeysoeの戦績を自ら確認していない。?
  • (B)詳細は不明だが、当時はニューマーケットオークスが「英オークス」とみなされるだけの価値を有していた?
どっちにしろ『凱旋門賞の歴史』には「エプサム・オークス」と書いちゃっているのでそこはマチガイのハズですが・・・?--柒月例祭会話2023年1月31日 (火) 02:45 (UTC)返信
調査ありがとうございます。またややこしい状況になりましたね…。
RetroNewsで検索したところ、1920年の Le Jockey 紙がヒットしました。
  • Le Jockey, 1 octobre 1920” (フランス語). RetroNews. BnF-Partenariats (1920年10月1日). 2023年2月4日閲覧。
    Forfaits
    Paris, 3 octobre. —— Prix de l'Arc-de-Triomphe; Caliban, Keysoe, March Along(後略)
    出走取消を報じた記事と思われます(四列目の下の方にあります)。二日前に取り消しとかえぐい。
  • Le Jockey, 29 septembre 1920” (フランス語). RetroNews. BnF-Partenariats (1920年9月29日). 2023年2月4日閲覧。
    一番左の行の下の方から始まるのが出走登録馬の一覧だとすれば、9月29日時点で Lord Derby は Keysoe と March Along の2頭を登録していますね(二列目の上の方)。
  • Le Jockey, 7 septembre 1920” (フランス語). RetroNews. BnF-Partenariats (1920年9月7日). 2023年2月4日閲覧。
    遡った9月7日時点だと、さらに Archaic という3歳馬も登録しているようです。2頭を出走登録したというのもいつの時点でというのが必要かもしれません。
ということで、ダービー卿がキーソーを第1回凱旋門賞に登録したが出走を取り消した、のは正しそうです。--霧木諒二会話) 2023年2月4日 (土) 04:50 (UTC) Archaic の馬名を間違えていたので修正。―霧木諒二会話2023年2月4日 (土) 05:00 (UTC)返信
  • すごい!こういうサイトもあるんですね(宝の山だなあ)!そしておっしゃる通り、これらが「登録馬の一覧だとすれば」(確かにそう見える)、ご指摘どおりダービー卿の3頭目の登録馬がいますね・・・こうなると凱旋門賞の登録はいつから受付だったのか、登録云々は「いつの時点」という情報が必要という話になるのかな・・・古典的クラシック競走だと「第1回登録はレースの3年前です」みたいになるので、凱旋門賞の場合はどうだったのか・・・
  • 現時点では、どこまで細かく書くのか、お示しの新聞記事の取扱いをどうするか、一次情報源・二次情報源の取扱いをどうするのかですね。たとえば9/7新聞記事による登録馬のうち、英国からの遠征組の目玉はきっと当年ダービー馬Spion Kopのはず(負担重量を基準にするとKeysoeの方が上ですし、筆頭には1000ギニー馬のダイアデムの名も。既にSpion Kopは春にパリ大賞に遠征に来ている。)。でも二次情報源『凱旋門賞の歴史』ではKeysoeしか言及がない。9/29の新聞にも名前がないので、9/7-29のどこかで取消したのでしょうね。これらの馬は下の方のコンセイユ・ミュニシパル賞(パリ市議会賞)の方にも登録がありますね。)。同紙の10/4版まで眺めましたけど、取消した馬についての言及みたいのはなさそう(フランス語を斜め読みしただけなので怪しいですけど)。(考え方としては、新聞は一次なのか(主催者が一次で新聞は二次?)というのもあるのかな?)
  • なんだか、最終形としては第1回凱旋門賞を別記事(単独記事)にして詳細はそっちにするとか、第2回のところのダービー卿に関する注21も「有力馬を登録したが結局出走しなかった」ぐらいのフワッとした書き方に留めて、詳細は個別の記事にまわすとか?うーん・・・『凱旋門賞の歴史』とは別系統の情報源も欲しくなりますね。『A Century of the Prix de l'Arc de Triomphe』はポチったのですが、まだ届いてないんですけど、アマゾンの書評を見ると1980年代以前のことは『凱旋門賞の歴史』の劣化コピー程度のことしか書いていないぽい。うーん・・・--柒月例祭会話2023年2月4日 (土) 07:26 (UTC)返信
      コメント
    • Wikipedia:信頼できる情報源によると、どうも当時の新聞は一次資料にあたりそうです。
    • 当該の節は「初期の凱旋門賞にイギリスの一流馬が出走してこなかったこと」の補足で、ダービー卿が所有する名馬を出走させなかったことを挙げているものと理解しています。取り消した馬を網羅したり詳細に説明したりは不要でしょうが、具体例としてキーソーやサンソヴィーノの名前を出すのはあっていいと私は思います。一方で(自分で言っておいてあれですが)ここで頭数は問題じゃないので、第1回に何頭登録したかはぼかしてもいいのではないでしょうか。
    • ただ「キーソーを登録したが出走を取り消したこと」の出典として新聞を使うのは問題ないと考えますが、「第1回に登録したが出走しなかった馬の中からキーソーを挙げる」や「ダービー卿が登録した馬の中からキーソーを挙げる」のは厳密には二次資料の出典を付けるべきなんでしょうね…。『凱旋門賞の歴史』を出典に注釈を残しつつ、オークスをセントレジャーに修正する、は合成になるかなあ…。
    • 情報:1925年10月2日に登録馬と思しきリストに名前があったサンソヴィーノは1925年10月3日にはリストから消えています。1920年10月1日のように出走取消の記事が必ずあるとは限らない…?
    --霧木諒二会話2023年2月5日 (日) 09:33 (UTC)返信

ミルリーフの節に関して。

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登場する人物の名前がわからないのが気になりました。

--霧木諒二会話2023年2月17日 (金) 13:19 (UTC)返信

  •   コメント ミルリーフになると、ミルリーフを主題に据えた伝記本とかがあるので、そういうのを入手できれば詳しいでしょうね。
  • 『凱旋門賞の歴史(1965-1982)』だと
  • 「32歳になる調教師のイアン・ボールディング」(p.146)
  • 「アメリカ空軍に貸与されているグリーナム空軍基地から同馬を空輸する許可を、アメリカ大使から得た」(p.142)
  • 「基地の司令官、ドワイト・D・ブラントン大佐は、ボールディングを全面的に支援するよう部下に命じ」
  • もしかしてひょっとすると、イギリス英語・アメリカ英語・日本語の翻訳の途中で「大佐」が間違っていたりするかも・・・(軍隊の階級制度の呼称が違うとかのあれで)
  • 山野浩一『伝説の名馬partII』p.21
  • 「アメリカ空軍機をチャーターしてキングズクレアに近いグリーナム基地からル・ブールジェに飛べるようアメリカ大使館に交渉した」
  • 「さすが元OSS(CIAの前身)幹部メロン氏の威光は大変なもので、ドワイト・D・ブラントン司令官は基地をあげてミルリーフ輸送作戦を遂行するよう命じた」
  • 『フランス競馬百年史』には情報なし
  • 原田俊治『新・世界の名馬』にも情報なし
  • 「大使の名前」が見当たりません。
  • 余談ですが「グリーナム空軍基地」って大戦直前は競馬場だったんじゃなかったかな。(ニューベリー競馬場関係)
  • ポール・メロンをみると、OSSの勤務地はヨーロッパだったとありますね。山野の「威光は大変なもので」は「山野浩一の感想」なんでしょうけど。(メロン氏の最終階級は少佐とあるので、基地司令の大佐に対する「威光」になるのかは知りませんけど、どっちかっていうと大富豪というのが効いたのかも)
  • 「ドワイト・D・ブラントン大佐」を探そうとしても、「ドワイト・アイゼンハワー」が邪魔して私には探せませんでした。--柒月例祭会話2023年2月17日 (金) 16:18 (UTC)返信
      コメント 情報ありがとうございます。
    • 『凱旋門賞の歴史 1965-1982』を見ましたので、これを出典にアメリカ大使の記述を戻しておきました。同じ棚にあった『英国競馬事典』(W・ヴァンプルー,J・ケイ著、山本雅男編訳)のミルリーフの項(435-437ページ)や『アメリカ競馬界の遺産』(エドワード・L・ボウエン著、大久保登喜子訳)のポール・メロンの章(176-179ページあたり)も見たのですが、空輸云々の情報はありませんでした。残念。
    • 基地の司令がどんな人なのか私も検索してみたのですが、ちょっと無理そうですね。めっちゃ偉くなった軍人というわけではないのかな。
    • 「オッペンハイマー卿」がサー・アーネストでもハリーでもないとは。
    --霧木諒二会話2023年2月18日 (土) 10:53 (UTC)返信
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