ノート:ペリリューの戦い
ここは記事「ペリリューの戦い」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
話題
編集戦闘経過部分 「万歳突撃はいっさいおこなわれず」「万歳突撃を行なって玉砕」 というのが書かれているのはおかしい。識者による確認と修正を希望する。0null0 2006年8月26日 (土) 12:59 (UTC)
脚注に関する編集合戦について
編集名越や滑川のことを調べれば調べるほど反吐が出る。 日本とパラオの友好のためにも名越関係の言説の削除を提案する。
ニミッツの碑文が二ミッツ作であるとの証拠が提示されない中、学者として怪しげな経歴の名越二荒之助の著作を元にパラオ関係が記述されるのは納得いきません。59.139.180.26 2007年1月4日 (木) 13:38 (UTC)
本当は二ミッツの碑文関係を削除すべきと思いますが、他人の文章を削除するのは気が引けるので 私なりに怪しげな部分を指摘したつもりです。ニミッツの碑文が二ミッツ作であるとの証拠が提示されれば削除に同意します。59.139.180.26 2007年1月4日 (木) 13:41 (UTC)
詳しくは知りませんが相手が誰であれ「反吐が出る」というような表現は控えるべきです。また、名越氏に可也に反感をもたれているようですが、反感は単なる感情に過ぎずその場合、名越氏に関係する文章の削除を希望するのは単なる好みと言わざるを得ません。これは右派の人間が朝日新聞等に批判・反感を持つ事と同等若しくはそれよりも酷いかもしれません。もし名越氏の信憑性に疑問があればその理由を是非とも明確に提示するのが適切・発展的かと思われます。--16toki 2007年1月4日 (木) 14:40 (UTC)
名越氏が信用できないとの趣旨は散々書いてきました。今まで彼の言説をもとにウィキペディアの多くの項目が編纂されてきたことに驚いています。二ミッツの碑文が二ミッツ作であると証明できる人はいませんか?:59.139.180.26 2007年1月4日 (木) 14:53 (UTC)
英語版で照会します:59.139.180.26 2007年1月4日 (木) 14:59 (UTC)
現在テルモピュライにある碑文は1955年に立てられたもので 古代ギリシア語、現代ギリシア語、英語の3つが彫りこまれています。 http://pds.exblog.jp/pds/1/200509%2F09%2F96%2Fc0010496%5F22343037%2Ejpg
英文は 「You stranger,go to Lakedaimonians and let them know that we lie here,faithful to their laws.」
テルモピュライの戦いウィキペディア日本語版の訳 「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモン(ラケダイモンはスパルタのこと)の人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」
森本 哲郎 1988 文藝春秋より刊行の『戦争と人間』 「旅人よ 行きてラケダイモンの人々に告げよ 我ら命に服してここに眠る、 と。」
村田数之亮「ギリシャ」(世界の歴史4)河出書房、1968年 「見知らぬ旅人よ、行きてラケダイモン(スパルタ)の人に伝えよ。われら命に服して、ここに眠ると」
図書館で名越氏の著作を調べた時はニミッツの碑文のくだりの部分を注目して気づかなかったんっですが ネットで調べると当該部分が全文UPされていました。なんと最初の節でテルモピュライの戦いについて言及されています。http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm
引用開始~ 世界の戦史と「玉砕戦」 大東亜戦争中、日本軍は、拉孟(らもう)、騰越(とうえつ)、ミートキーナ(いずれも中国大陸)をはじめ、太平洋の島々で玉砕するまで戦いました。玉砕の規模、そして戦死者数(私の計算では全部で八万数千)からすれば、これまでの世界の戦史に見られない壮絶さでした。
このようなギリシャ悲劇にも見られない壮絶さは、特攻隊の出現と共に、世界の人々の驚きでした。当時、敵国であった蒋介石総統のごときは拉孟・騰越の攻囲軍に対して、「東洋道徳の範とせよ」と、訓令を発した程でした。このように全員が戦死するまで戦った事実は、精神の偉業として敬意を表し、日本人として心に深く刻んでおくべきことではありますまいか。
私の知っているだけでも、ペルシャ戦争の時(西紀前四八〇年)、スパルタ王レオニダスは、テルモビレーの天険に於て、玉砕するまで戦い、それが今も世界戦史の語り草になっております。テルモピレーの玉砕数は三百五十、傭兵を含めて約千名。さらに西暦七四年には、群がるローマ軍を相手にマサダの丘にたてこもり、ユダヤ人約九百六十人が玉砕しました。さらにアメリカには、アラモ砦の要塞を死守して玉砕(テキサス独立戦争・一八三六年)した二百五十人の例があります。
これから紹介するのは、ペリリュー島の玉砕戦の中に生まれた物語の要約です。これは一部の人が忘れようとしても、人間の心を持つペリリュー島民に語り継がれ、やがて日本が正気をとり戻したら、我が国でも必ず教材化されるに違いありません。 ~引用終了
「ギリシャ悲劇にも見られない壮絶さは」「テルモピレーの玉砕」という言葉が印象的です。
ところで上記サイトで名越氏の主張を時系列を追うと、 1982年ペリリュー神社再建→198?年名越自身がペリリュー神社の境内掲示板でニミッツの詩の日本語版を発見→1984年浦茂氏がアナポリスでニミッツの詩の英語版を入手→1987年名越二荒之助著、展転社刊、「世界に生きる日本の心」に掲載→1994年ニミッツの詩の碑建立となります。
1982~3年頃、名越氏が最初に発見したした詩(日本語) 「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
1984年名越氏が浦茂氏に頼んで入手した英文詩 「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」
名越氏の主張について、ソースの信用性が著しく欠けていると考えます。米国で入手したという原文?も、結局は伝聞に過ぎませんし、なによりも彼の主張が社会的には一部の右翼団体から支持されているに過ぎず、科学的な批判に耐えうるものではありません。よって、WiKiに掲載すべき事柄とは言いがたいので削除を求めます。--利用者:MKT 2007年1月8日 (月) 04:39 (UTC)
- まず、ウィキペディアは独自の調査結果の発表の場ではありません。名越氏の記述に対して疑問を呈するお気持ちは理解致しますが、執筆者独自の意見によるものであれば、ウィキペディアの編集方針から記載されている注釈の削除はやむを得ないと思います。もし注釈の内容が世論の認知を得ている証拠となるソースがあるのであればそれを提示して下さい。
- また名越氏の主張を削除するべきとの意見については、本文に記載されているのは「そういった主張がある」という事実であり、信用性はどうあれ現在のパラオに対する印象に名越氏の主張が多大な影響を与えてしまっている事(例えば『ペリリュー島玉砕』で検索すると多くのサイトで石碑について言及されています)、また石碑という目に見える形で存在しているため今後も影響力を与え続けるであろうという事も加味し、氏の主張の削除に反対致します。--唄方 2007年1月14日 (日) 06:07 (UTC)
>信用性はどうあれ
キリストは日本で死んだというのものせなくてはなりませんね。
ところでその後調査した結果、 石碑を作った住吉会系暴力団の滑川氏が設立したNPO南洋交流協会の会長は横浜のソープランド経営者ですね。南洋交流協会はNPOの看板をフルに利用して美人コンテストやモデルの卵や政治家をあつめてゴルフコンペを主催して政界と関係を築いてますね。モデルの卵たちの今後が心配です。:59.139.180.26 2007年1月14日 (日) 11:28 (UTC)
>信用性はどうあれ現在のパラオに対する印象に名越氏の主張が多大な影響を与えてしまっている事(例えば『ペリリュー島玉砕』で検索すると多くのサイトで石碑について言及されています)、また石碑という目に見える形で存在しているため今後も影響力を与え続けるであろうという事
学者が論文を偽造したら学者生命は終わりです。この一ヶ月で東大や阪大やの教授が首になりました。にもかかわらず アインシュタインの予言を偽造した名越氏がなんらペナルティーを受けず、今後もネットやウィキペディア日本版で影響を及ぼし続けるのは異常な事態といえましょう。--以上の署名のないコメントは、59.139.180.26(会話/Whois)さんが 2007年1月14日 (日) 11:35 (UTC) に投稿したものです。
三流学者が三流出版社から出版した三流本をソースにウィキペディア日本版が書かれるこの状況は異常な事態といえましょう。:59.139.180.26 2007年1月14日 (日) 11:43 (UTC)
- 名越氏に対する貴方の見方は既に発表されていますので存じています。事態を憂えるのは分かりますが、ウィキペディアは執筆者独自の主張・意見を方針として認めていません(貴方が世論に発言力を持っている人物であり、かつ実名を公表するのであれば別ですが)。また、繰り返しになりますが私が上記の意見を持つのは氏の主張が日本のパラオ観に影響を与えているためという観点によるものであり、名越氏が信頼出来る人物であり彼の主張が正しいものであるため、という理由ではありません(主張が正しいかどうかを判断するのは読者です)。氏が学者として如何な行為を行ったとしても、現状で影響力が払拭されているとは到底言い難いと思われます。一定の影響を与えているのであれば、その影響の方向がどうあれあえてそこから目を逸らすのは中立的な観点からしても好ましくないでしょう。貴方の言動を拝借するならば、異常なのは「三流学者が三流出版社から出版した三流本」に対して今までまともな反証もしようとせず氏の信用性を問う事もなく放置してきた日本そのものです。そしてそこに一石を投じたいのであればウィキペディアではなく学会やご自分のウェブサイト等で行うべきです。その反証が世間で認知されるに至った後であれば、この注釈は掲載すべき内容になるでしょう。--唄方 2007年1月14日 (日) 13:02 (UTC)
- 念のため申し上げますが、私は削除を行った本人ではありませんし、今までこの記事の編集に携わった事もありません。ご了承下さい。--以上の署名のないコメントは、唄方(会話・投稿記録)さんが 2007年1月14日 (日) 13:13 (UTC) に投稿したものです。
- 最終書き込みから一ヶ月が経過しておりますが、状況はいかがでしょうか。履歴を拝見する限りこの間も接続なさっていた様ですし、悪意的な意図でコメントを控えているのではないと存じますが、そろそろ何らかのご返答をいただきたく存じます。--唄方 2007年2月20日 (火) 09:53 (UTC)
- 念のため申し上げますが、私は削除を行った本人ではありませんし、今までこの記事の編集に携わった事もありません。ご了承下さい。--以上の署名のないコメントは、唄方(会話・投稿記録)さんが 2007年1月14日 (日) 13:13 (UTC) に投稿したものです。
ニミッツ提督の碑文の文章が本物であると証される方がおられるならいつでも削除してかまいません。 当方も真実の確認のために英版のノート欄で照会中ですがアメリカの軍オタの皆さんからは返答がありません。
アメリカに対する非礼と日本の恥を晒し続ける名越の文を信ずるなら当該二ミッツの文章は時系列的には神社の再建時に名越が発見したわけです。 神社の再建をした日本青年社副会長の滑川裕二はNPO南洋交流協会設立・理事長を務めている人物です。氏は指定暴力団住吉会の人間であるのは皆さんご存知かと思いますが、NPO南洋交流協会の会長は横浜のソープランド経営者で業界団体の長としてソープランド業界の健全な発展に尽力してる人ですね。NPO南洋交流協会が美人コンテストを主催し、自民党の中川秀幹事長が招待されたりしてます。中川幹事長は官房長官時代に官邸機密費に絡み滑川裕二との関係が報道されていますね。
まあ、ぶっちゃけ日本のマフィアが三流学者と組んでアメリカの英雄の石碑をでっち上げたわけです。59.139.180.26 2007年2月25日 (日) 10:31 (UTC)
滑川裕二氏は80年代以降、太平洋地域に散らばる日本の戦跡で神社の建立、石碑や灯篭を建てまくってますね。寄付金を募って。一種のビジネスですね。しかも成功したと。滑川裕二はつい最近もNPO(非営利組織)をかたって寄付の強要で逮捕されてますね。80年代は英霊、90年代はパラオとの友好、現在はNPO、が寄付集めのキーワードなんでしょう。59.139.180.26 2007年2月25日 (日) 10:40 (UTC))
ご返答ありがとうございます。しかしながら、その内容は私には名越氏に対する貴方の見解の焼き直しに見えてしまいます。おそらくこのまま私のみと議論を行っても意見の相違により平行線のままであると判断させていただきましたので、論争の解決のステップに従いコメント依頼に提出させていただきます。幅広い意見を募り、名越氏の主張に関する記事及びその注釈について残すべき内容かどうかを吟味させていただきたく存じます。
改めて私の意見を整理致しますと、「名越氏の主張と石碑については、世間に与えている影響力から記載するべき(主張や石碑の逸話が真実であるとして記載するのではなく、そのような主張と石碑が存在する、という意味合いで)」「注釈については、独自調査や個人的見解が含まれているため削除するべき(名越氏が逸話を提示している本のタイトル、及びそのソースの信頼性に難がある点は指摘しても良いでしょう)」といった内容になります。
なお、貴方が英語版のノートに記載した内容を確認致しましたところ、ミニッツのノート[1]にて返答を確認致しました。既にご存知かも知れませんが、念のためご報告申し上げます。--唄方 2007年2月25日 (日) 14:33 (UTC)
英語版での当方の質問に返答はまだ来てません。
パラオ本島のアイメリークには児玉誉士夫の名を刻んだ戦没者慰霊塔が1986年に青年思想研究会によって建立されています。日本のウヨクがパラオをダシに企業から協賛金を募ってる構図が見え隠れします。
オキヤマトヨミ作詞となっているペ島の桜を讃える歌も胡散臭いですね。6、7年小学校で日本語教育を受けた人があのような詩を作詞できるでしょうか?現在に日本の大学生でも出来ないでしょう。 それとオキヤマを調べる過程で オキヤマトヨミはペリリュー島の戦いで島民に犠牲者が出ていると証言しています。59.139.180.26 2007年3月11日 (日) 15:57 (UTC)
ウィキペディアの編集方針がわかってきましたので いちど注釈部分を削除して解除するのに同意します。皆さんにご迷惑をおかけしましてあい、申し訳ありません。 個人的見解を含まないように書き直したいと思いますです。 名越の本にはニミッツの碑文の1ページ前にテルモピュライの戦いをさりげなく触れている部分がありますので、そこをポイントにニミッツの碑文とテルモピュライの碑文との相関性について暗に指摘したいと思います。あと、ぺリリュー島の桜の歌、島民の犠牲者についても春休みが終わるまでにはなんとかしたいですね。59.139.180.26 2007年3月13日 (火) 09:13 (UTC)
- ご連絡ありがとうございます。では、注釈部分の削除を合意と見做し、保護解除を依頼させていただきます。なお、この削除の合意はあくまで個人的見解が含まれていたためのものであり、名越氏の主張が正しいと判断されたためではない事を明記致します。注釈削除後も名越氏の主張に対してウィキペディアの方針に沿った形で反証を掲載する事は全く問題ありません。今後のご活躍をお祈り致します。--唄方 2007年3月14日 (水) 12:09 (UTC)
- 保護解除されましたので、合意に基き注釈の一部を削除致しました。なお、個人的見解が含まれず引き続き掲載しても問題がなさそうな部分については残しました。--唄方 2007年3月19日 (月) 13:54 (UTC)
ペリリュー神社の石碑について
編集個人的には、この記事内では軽く触れるに留めてペリリュー神社の記事で詳しく説明する方が良い気がします。この詩の「発見」の発端がペリリュー神社の掲示板であるとされ神社建立の経緯とも関連があると思われる事、石碑が置かれているのがペリリュー神社であることが理由です。いかがなものでしょう。--唄方 2007年3月19日 (月) 13:54 (UTC)
アメリカ大使館
編集春休みに上京してアメリカ大使館に相談して、初耳だと言われとりあえず 資料室に行きなさいといわれ 資料室に行って見つけられず、職員の人に調査を頼んでたんだけど 以下の回答メールを得ました。
○○○○ 様
関西アメリカンセンター・レファレンス資料室です。 お問い合わせの件につき以下のようにお答えします。
当資料室に所蔵する資料で、Chester Nimitzの経歴・詩・引用文を調べましたが、お尋ねの詩に関しては確認できませんでした。
関西アメリカンセンター・レファレンス資料室 Kansai American Center Reference Service tel: 06-6315-5970 fax: 06-6315-5980 E-mail:kacrs@state.gov アメリカ総領事館のホームページ http://osaka.usconsulate.gov/wwwhjmain.html アメリカ合衆国に関する情報はこちらへ http://japan.usembassy.gov/j/info/tinfoj-faq.html
冒頭の概要について
編集「ペリリュー戦は唯一第1海兵師団が壊滅した戦いでもある。」 となってますが、壊滅はしてないですよね? 攻防戦が長期にわたり、消耗が小さいものではなかったのはそうですが 消耗が大きいので予備の陸軍と交替したというのを壊滅と表現はできないのでは。 --以上の署名のないコメントは、240F:65:3944:1:51A8:B57E:C3B6:9952(会話)さんが 2017年10月9日 (月) 20:02 (UTC) に投稿したものです(ぽん吉(会話)による付記)。
第1海兵師団は消耗率が60%を越えたうえ全連隊が壊滅したため事実上壊滅判定を受けてます あああえ(会話) 2017年12月7日 (木) 05:48 (UTC)
何か勘違いしてらっしゃるようですが、壊滅というのは人員が全員死んだ、もしくは負傷したということを指すのではなく、軍隊として戦闘能力をどこまで維持できているか、という点にあります。 ペリリュー島の場合、60%以上に及ぶ人的損害で、戦闘継続困難になり次々と海兵連隊が同島から撤退し、10月15日を最後に第一海兵師団が撤退していることを考えると壊滅という言葉も正しいです。 また、第一海兵師団が壊滅したという表現であり陸軍と交替したからといって第一海兵師団はどちらにせよ再編成の為パヴヴ島戻り、その後の硫黄島の戦いに参加できていない点も考えれば壊滅という表現も妥当です--一般名誉階級無産市民(会話) 2017年12月8日 (金) 04:22 (UTC)
補足をさせていただきますが 全滅というのは文字通り兵士が全員に損害を受ける(捕虜、戦死、負傷、戦病など)時にのみ使えます。 壊滅はその組織が体を成さない状態になることです。 確かに第1海兵師団は壊滅判定、全滅判定を受けてますが数的に全滅よりも壊滅の方が妥当だと思ってます あああえ(会話) 2017年12月8日 (金) 06:05 (UTC)
あなたは何をおっしゃっているのでしょう? あなたは最初、『「ペリリュー戦は唯一第1海兵師団が壊滅した戦いでもある。」 となってますが、壊滅はしてないですよね?攻防戦が長期にわたり、消耗が小さいものではなかったのはそうですが 消耗が大きいので予備の陸軍と交替したというのを壊滅と表現はできないのでは。』 と発言しておりますが…というよりこれが本題でしょう? 「壊滅という表現はおかしい」と問題提起しているあなたが、「壊滅が妥当」とおっしゃるならそもそもこの議論をする必要性自体皆無ではないでしょうか。--一般名誉階級無産市民(会話) 2017年12月8日 (金) 12:47 (UTC)
あの勘違いをしているようですがこの記事を作ったのは自分では無いのですが..... あああえ(会話) 2017年12月8日 (金) 15:37 (UTC)
自分が最初に見つけたので反論をしたのであって一番上のは自分が書いたわけではありません。 そもそも一番上のと二番目を同一人物が書いたら発言そのものが矛盾しすぎてますし。 あああえ(会話) 2017年12月8日 (金) 15:39 (UTC)
それは失礼。履歴を見て理解した。やはり署名入れないと誰が誰だか分かりませんね。--一般名誉階級無産市民(会話) 2017年12月8日 (金) 15:44 (UTC)
確かに署名をしないと分かりにくいですね。 とりあえず誤解が解けたようなので良かったです。 あああえ(会話) 2017年12月9日 (土) 02:13 (UTC)
戦力比較に追加
編集戦力比較の欄にアメリカ海軍も追記するべきかと思うのですが。 サイパンの戦いでも一応表記されてますがペリリューだけは戦闘経過にしか書かれていないので。 あああえ(会話) 2017年12月9日 (土) 06:50 (UTC)
一応調べた限り海外のwikiですと空母5隻護衛空母11隻と出たので追加するべきかと思っているのですが あああえ(会話) 2017年12月24日 (日) 15:58 (UTC)
参考文献について
編集「水戸歩兵第二連隊史」を参考文献に追加するべきかと思いますが追加しても良いでしょうか あああえ(会話) 2018年8月29日 (水) 10:57 (UTC)