ノート:キリスト教/過去ログ2
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結婚式?
編集現代日本のキリスト教、の冒頭部に「キリスト教式結婚式」について加筆してくださった方がいるのですが、何かそぐわないように思い、いったんコメントアウトしました。とても収まり悪くみえたのです。
なぜ収まり悪く思ったのかということを考えますと、前節からの続きで実質的には教団史がかかれているセクションには、異質だということが理由なのかと思います。またこれは杞憂なのかもしれませんが、各教団の信徒数を書いた直後に、キリスト教式結婚式というのは、その内実(信者でない方も相当数いるはずですよね)について書かずに付け足すのはやや情報の提示としてうまくないようにも思います。
そうかといって、日本人が接するキリスト教ないしキリスト教文化なことどもについて、まったくウィキペディア上に情報がない、というのもやや欠けるようにも思います。日本におけるキリスト教受容、ということにそうしたことも広義では入るでしょうしう、それが直接この項目上であるかどうかはともかく、どこかにはあってよいと思います。またそういう視点からみると現在の記事は教義および教団史に傾きすぎていて、キリスト教文化(典礼をはじめとして、教会音楽、建築、美術など、また他の宗教文化との接触)についてもっと記述があってもよいのかもしれないとも思います。まあ、イオサヒフとワルラアムなんていうのは、この項目で取り扱うにはやや狭い範囲の話題に属するかとは思うのですが。
今後どのような方向性で記事の改良を進めていけばよいのか、この機会に皆様方のご意見を伺えればと思います。--Aphaia 2006年11月27日 (月) 15:44 (UTC)
- 確かに唐突だったかもしれません。お詫び申し上げます。と同時に全く触れないことも不自然に思います。日本人の6割が現実に十字架の前で愛を誓っているのですから。新たに項目を作成いたします。Album 2006年11月27日 (月) 16:06 (UTC)
- (コメント)言わんとしているのは分かりますが、「愛を誓う」でなくて、「結婚式を行う」だと思います。信じて行うというよりは、(熱心な信徒の方を除き)多くの方が形式のみ行っているというのが、表現的にあうかと。--Los688 2006年11月27日 (月) 16:24 (UTC)
- (コメント)Albumさん、ご理解ありがとうございます。どこかに書くべきことだということには賛成です。別項目にするか、あるいは当該の節の最後に、「超教派」の次の節として「日本社会に対するキリスト教文化の影響」をつけ、結婚式などの話はそこへ持ってくるといいのかなと思います。言葉遣いについては、Los688さんのご指摘のように、中立的な「結婚式を行う」が妥当だと思います。Los688のご指摘にあることもそうですし、教派によっては「誓う」ことがそもそもない、また一部教会の信徒にとっては、神学上、誓うことよりも、秘蹟を受けること/牧師の祝福を受けることのほうが信仰上意義を強調されていることなどあり、「愛を誓う」ということを際立たせるよりは、包括的な記述を旨とするのがよいように考えます。--Aphaia 2006年11月27日 (月) 16:33 (UTC)
- 「日本社会に対するキリスト教文化の影響」などのセクションの中にサブセクション(またはリスト)として「キリスト教式結婚式」を記述するのはいいアイディアですね。「クリスマス」なども、キリスト教から始まり日本において宗教と言うより習俗として定着したもの、として同様に列挙できると思います。 --Izumik 2006年11月27日 (月) 18:01 (UTC)
キリスト教式では「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」という問いかけは一般的ではないのでしょうか?人生の節目で選ぶ、ということは単なる習俗ではかたづけられないようにも思います。この形式の経験者ですが、もらった聖書を捨てるカップルがいるとも考えられない。あの緊張の中で教えを聞き、愛を誓うことは、単なる習俗とはいえません。出典も比較的簡単に探してこられると思います。Album 2006年11月27日 (月) 16:50 (UTC)
- 神学的にはキリスト教全般でその箇所に力点があるわけではない、したがってそこに力点を置くことは不適切であろう、とのわたくしの上の発言はお読みくださいましたか?カトリックや東方正教会の結婚式では、誓いの部分で婚姻が成立するわけではなく、神父(司祭)の祝福があってはじめて婚姻が成立します。またあげていただいた文言ですが、最近のいくつかの教派では「誓う」という動詞を他の動詞にかえるところがあると聞いています。これは「誓うな」という山上の垂訓の一節などを考慮した結果だということです。「人間二人が愛を誓う」ことがキリスト教の結婚式の一義的な目的ではなく、「神の祝福により二人を夫婦とする」ことに、伝統的諸教派では結婚の意義があります。力点のおき方が違うのです。
- 習俗かどうかですが、宗教的意義を持つ行為が同時に習俗であることは十分可能です(見方の問題ですから)。また信仰実践か習俗かどうかといえば、信者でない方のキリスト教式結婚式というのは、その方に信仰がない以上、信仰実践とはいえないと私は考えます。すべての教会が信者でないものの結婚式を受け入れるわけではないことを私はここで指摘しておきたく思います。その習俗上の行為が、その方個人の人生にとって意義深いかどうかは、また別の問題でしょう。そしてそれは、結婚(式)などのところに記述するのがふさわしく、キリスト教とは直接しないことのように思います。--Aphaia 2006年11月27日 (月) 17:15 (UTC)
ご説も理解しないわけではありません。ただし、「~な教派もある」といってしまうと、その各派の記述のバリエーション自体が本文で相当不足していることになるかと思います。組織に記述の主体を置くと一冊本が書けてしまいます。ですから記述の力点を、組織ではなく、「平均的日本人の、キリスト教への接点・かかわり」という視点からそのような記述にいたしました。Album 2006年11月27日 (月) 22:27 (UTC)
- プロテスタントでも牧師の「宣言」によって婚姻が成立します。誓いで、ではないです。なにしろ誓うなとか書いてある本に基づいてやっているからであるのは既出ですね。こっちではサクラメントではないので、祝福によってでもないです(カトリック派生ですからかなり密接ですが)。でですね、キリスト教式の結婚式の記事はどこかにあってもいいとは思うのですが、この記事には一寸置き場所がないんじゃないでしょうか。結局最低7通りの事例(オーソドクス、カトリック、プロテスタントの信者同士の婚姻とカタクリ・ノンクリのケースと、式場のマガイモノ=平均的日本人がダマせりゃOK)に触れないとならないので、バリエーションを統合するのは無理です。ていうか、貴方に大差に見えないことが宗教学・比較文化的には大事なんです。平均的日本人の知ってるような事を書いたって誤謬の拡大再生産になるだけで学術価値はなく、それはつまり百科事典の記事としてダメだということです。そういうものは他国語のwikipediaで「日本人の結婚式観」という観察記事になると意味をもつものだとおもいます。LR 2006年11月27日 (月) 22:52 (UTC)
- 例を挙げます。例えば「自動車」という項目において、テクニカルな立場から「ピストンエンジンとロータリーエンジンは違うんだ」ということで詳述することも出来ます。また一方、利用者の立場から、自動車の普及の具合であったり、法規制、公害の視点から記述することも意味有ることです。信仰者の立場から、一般の日本人を低く見渡して、「エンジンの違いや足回りが本質なんだ、素人に一般への普及なんて記載させない。」という姿勢でよいのでしょうか?キリスト教はもはや信仰者や宗教研究家の占有物ではありません。ここは「宗教事典」でもありません。一般の日本人が利用する一般の日本人のためのWEB百科事典です。キリスト教の信仰者は1%程度とよく言われますが、結婚式を通じてキリスト教や、その教え、神父や牧師にかかわりを持つカップルは2005年度の調査で68%にもなります。富士山も、清水港から見た姿、御殿場から見た姿、山梨から見た姿があり、「この観点からだけ書く」、ということはかえって百科事典として偏りを生じると考えます。--Album 2006年11月28日 (火) 01:01 (UTC)
- すこし落ち着いてください。我々は基本的に適切と認められる場が与えられれば記事を書く気満々なんです。自動車の例でいえば、エンジンにはロータリーとレシプロがある(木炭もハイブリッドもありますね)とさらっと書くのは結構ですが、ロータリーエンジンもレシプロエンジンも別立て記事にする必要がある重要技術テーマでしょう。それを無理やり自動車の記事の中に字数を気にして貧弱に書くことはないじゃないですか。
- それに「差異が大きすぎて偏りなく適切なサイズに統合がすることが難しい」と当事者が言ってるわけです。極論すれば「キリスト教」なるものは実体のない共同幻想で実在するのは個々の教会ですから、無理に短くすると偏ったものしか出来ません。ですから、ここには書きにくいんです。百科事典に許されない偏りを防ぐ為にまず充分な用地を確保して多方面から全部書こうと提案する我々に「偏った記事はふさわしくない」と説教垂れても戯画にしかなりません。
- なお、宗教は信仰対象と信者(含む聖職)の占有物です。それ以外の方にも各種の便宜は図られるでしょうが部外者にそれを要求する権利も規定する権利も支配する権利もないことを弁えて下さい。また、一般の日本人が利用する一般の日本人のためのWEB百科事典は宗教事典より貧弱で不正確でもかまわない、とは私は考えませんし、信仰に基づかない型を真似た儀式を宗教の記事で信仰行為と同列に並べて記述することには明確に反対します。LR 2006年11月28日 (火) 02:36 (UTC)
- なるほど、全体の敷地から考えたバランスという視点は必要ですね。なおかつ結婚式の利用者は確かに元々の信者が多くないことも認めます。しかしながら、結婚式の主催者は、つまり運営サイドは神父であり、牧師であり、教会です。「真似た儀式」という観点については、明確に否定いたします。一部の結婚式の偽牧師は論外ですが、それ以外はあくまでも普通の日本人と信仰者の最も多く、かつ一生を通じての深い接点となっています。信仰者が日本の結婚式を執り行っている、という事実はあるのです。
- 「すこし落ち着いて下さい」とのことですので、アドバイスを聞き入れて、一週間経ったら参ります(12月5日に)。ただし、削除など大幅な書換えがあれば、また考えますが・・・。「秀逸な記事」も、ただそこに止まっていては、並みの記事に堕ちていきます。常に健全な発展性を持つことを期待します。その根拠として、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかおよびWikipedia:中立的な観点 を挙げておきます。--Album 2006年11月28日 (火) 03:31 (UTC)
いや、申し訳ないが、「まねた儀式」なんですよ。これは形式からそういわざるをえなくて、信者同士の結婚式と、どちらか一方が未信者の方である場合では、結婚式の内容そのものが違うのです。一番分かりやすいのはカトリックで、信者同士の場合は婚姻ミサをたて、これが結婚式の中核なのですが、未信者の方の場合、ミサをたてず、ミサの要素である説教や聖歌などだけを行います。信者同士の結婚式と比べれば、未信者の方のキリスト教結婚式というのは、餅のない雑煮みたいなところがあります。それをあえてよいとやる方がいることは知っていますが、そしてそれを非難する方が教会内にいることも知っていますが、そうですね、はっきりいってしまえば、他教派の方がなさることには論評は加えたくないと、私などは思いますね。--Aphaia 2006年11月28日 (火) 03:50 (UTC)
- はい、いくらでもお待ちします。それによって互いに冷静なよりよい議論をするためならば。ただ、加えて一言筋論を申せば一般の結婚式を主催しているのはご両人もしくはご両家ですよ。それは招待状の差出人から明らかでしょう。牧師や神父、というか教会に責任の一端を任されている場合なら、両人を詮議して挙式の可否を判定します。つまり拒否する場合もあるのです。それが可能な権威とシステムが司式者に与えられていない、式場のチャペルにどこからか聖職者らしい人がくる場合、聖職資格の有無にかかわらずその人には一切の責任を問えません。資格も権利もない新郎新婦が免責を交換条件に無理言って格好だけでもそれらしくしてくれるように頼み込んでいる、という形になるんです。LR 2006年11月28日 (火) 04:13 (UTC)
- そこまで言い出してしまうと、キリストは十字架を掲げろとは言っていませんし、三角屋根の教会を作れとも言っていない。ましてやカトリックとプロテスタントに分裂しろとも、もちろん言っていない。あらゆるキリスト教組織や儀式が形骸化したものだとも言いえます。一部、追記部分をコメントアウトしました。もちろん「信頼できる情報源」があれば戻して下さい。それでは12月5日に。--Album 2006年11月28日 (火) 05:06 (UTC)
- さて、約束の期間が経ちましたので、こちらのターンということで(笑)編集しました。東方の婚姻ですが、双方ノンクリな事例を突っぱねるのは判るとしても、片方だけ自派信者の場合も行わない、というのはやはり一寸解せないので要出典を貼りました。日本に限らず世界中で相手が西の信者であることや、東の場合特に相手がイスラム教徒である場合がそれなりに発生している筈で、それを全部みすみす相手方の流儀にさせておくことはないはずに思えます。実際カトリックのノンクリ結婚式は、欧州で「相手がプロテスタントである場合」に取られる形式の敷衍として行われています。
- また、この総合記事においてはこれ以上詳しい内容を加えることは出来ないと考えますので、Albumさんがもっと書きたがっているらしい詳細な内容の置ける場所をどういう記事名で立てるか、話し合いませんか。LR 2006年12月5日 (火) 00:42 (UTC)
- LRさん、婚配機密のことですが機密だからです。名古屋教会でこれを解説して下さっているので、よろしければごらんください。そもそも信者でないものは正教の機密を受けることはできません。例外は完全共同倍餐さんの場合ですが、カトリックやプロテスタントはその対象ではありません。また一般に信者でないものはそもそも公祈祷を自分のために行っていただくことができません。--Aphaia 2006年12月5日 (火) 04:52 (UTC)
- 「非機密簡素版はどこにも無いのか?」という疑問に「機密だから非信者はもちろん他教派もムリ」という回答は話が噛み合っておらず、意思疎通に不安を感じるので、もう一往復させて下さい(爆)。つまり世界中何処の正教会にもその手のものはないらしい、と納得するためには、次には何を見たら宜しいかご指示ください。(名古屋の質問箱は見てきました)。ちなみに、返礼として、プロテスタントの結婚式とそれに関する見解についてオンラインで読める最良の日本語文献は恐らくこれです。LR 2006年12月5日 (火) 13:14 (UTC)
- 残念ながら、書いたものを示すことはできません。複数の神品から、「非信者に対して婚配機密は行わない」と聞いている、以上のことは示せません。教会会議の決定かなにかでしょうが、正教会は西のようには書いたものを信者がみてうんぬんするというふうにはなっていないので(司祭に頼るといいましょうか)。なお、正教会で、「信者」といえばそれは正教徒のことで、LRさんのように他教派と非信者を分ける発想はないように思います*。逆に、非信者と信者の組み合わせで婚配機密を行っている例をご存知でしたらお示しください。
- とここまで書いてから思い出したのですが、Orthodox Wiki の主催者の方に、お伺いしてみるのもいいかもしれませんね。アメリカ正教会の司祭品でおられて、英語版ウィキペディア等でもアクティブに活動しておられる方です。質問すれば典拠つきで正解を教えていただけるかもしれません。--Aphaia 2006年12月5日 (火) 13:34 (UTC)
- 補足。一般的には、という意味です。洗礼の有効性などでは、他のキリスト教教派の洗礼が認められることもあります。また一部教区に限られますが一部他教会と完全共同倍餐になっているところもあります(日本国内ではないです)。ですが一般的には正教の信者かそうでないかという区別がもっとも大きいように思います。--Aphaia 2006年12月5日 (火) 13:44 (UTC)
どうも引っかかっていた原因がわかりました。書斎で発掘した高井寿雄「ギリシア正教入門」(教文館、1977)に、以下のような記述があります(p44)。
…正教会でも、時折り他の教会と同様、キリスト教の結婚式に憧れて挙式を求めて来る人があるが、両方とも未信者の場合は挙式は許されない。但し、片方が信者である時には、挙式はできるけれども「婚配機密」といわれる「加冠の式」は行わない。…
私は20年前に読んだコレをどこかで覚えていたようです。LR 2006年12月5日 (火) 15:36 (UTC)
- 資料ありがとうございます。現実の対応としては、現在婚配機密を伴わない結婚式というのは日本では行われていないと認識していますが、此の記事で日本だけを取り出す理由はあまりありませんね。公祈祷のなかには主教品の祝福があれば未信者に行ってもよいもの(埋葬祈祷)もあるのですが、手元の資料には婚配についての資料はありません。可能性としては埋葬祈祷と同じ扱いなのかも。そうだとすると主教区の方針にたぶんに依存するので、世界には挙式を積極的に行っている教区もあるのかもしれません。このあたりを書くとごちゃごちゃしそうなので、これは婚姻に書いたほうがよいかもしれませんね。機密/秘蹟はたしかそれぞれに記事が立っていたように記憶しています。--Aphaia 2006年12月5日 (火) 16:04 (UTC)
- さすが真面目な方が集っている項目らしく、期日までしっかりで嬉しいです。今、イメージしているのは、一般の日本人にとっての接点である1.「クリスマス」、2.「結婚式」ですね。それぞれ3行づつくらいのイメージですけれども。ですから、教派の比較はまったく必要なし、と考えています。あくまでも市井の日本人にとっての、という記載にしたい。日本人の一般的キリスト教文化の「受容」の形として。--Album 2006年12月5日 (火) 01:00 (UTC)
- その件に関してはすでにご希望通りになっていませんか。あとは同様の体裁でクリスマスについて触れればよろしいのでは。ただ、これは「(世界の)キリスト教」の記事ですから、「本来の宗教的意味はどうだ」という宗教儀礼解説より「日本では非キリスト者がこうしている」という特定区域の習俗の方が詳細になっては奇矯です。その意味ではクリスマスは別項が立っているので「ついでにクリスマスも参照しといて」でいいのではないでしょうか。別項があるなら重複記述皆無でOK、むしろ禁止、は百科事典のみならずすべての辞書の基本で、それは紙面節約以上の矛盾回避と一覧性確保の意味を持ちますので。あの記事はもともとそういう用途に別立てされたものに習俗記述をどういう視座からどの程度の加えるかで泥沼になっているのではないかと拝察します。少なくともシーズンが過ぎて落着くまで、私は手を出したくありません(笑)。LR 2006年12月5日 (火) 02:48 (UTC)
- そうですね。その「シーズン」という感覚、よく分かります。いまにして思えば1月から始めれば良かったのかな?と後悔もしています。一つ、提案ですが、この項目全体を来年まで削除しておきたいのですが、いかがでしょうか?つまり、いったん私が結婚式を追記する以前の状態へ。(履歴に記載は保存されています。)クリスマスが近づいてきて、この新たな項目は「荒らし」を呼ぶ土壌となりそうで、ちょっと嫌です。責任も感じます。クリスマスは保護中ですが、サンタクロースには、昨日「荒らし」が来たのです。まさにシーズンです。よろしくお願い申し上げます。--Album 2006年12月5日 (火) 03:33 (UTC)
- それは大変ですね。ですがサンタクロースはヨーロッパ・アメリカのごく一部の地域の民間伝承で、キリスト教とは関係ないのではないでしょうか。私の教会では、そもそもクリスマスツリーも飾りませんし。。(電飾はしますけど。夜の礼拝のあとはきらきらして心が和みます。でもこれはあまり信仰と関係ないですね)。--Aphaia 2006年12月5日 (火) 16:06 (UTC)
再編成
編集ずっと考えていたのですが、やはりこの項目には大規模な再編成が必要なように思います。
- 歴史
- 近現代が細かすぎるように思います。現況を理解するのに必要 な程度にとどめて、教派成立史などはキリスト教の歴史に移したほうがいいのではないでしょうか(現在は近世までをあちら、近現代はこちらへと棲み分けています)。
- 他宗教との関係
- ユダヤ教、イスラム教への関係が柱となるのは変わらないと思いますが、イスラム教への言及があるなら、キリスト教系新宗教への言及や、また一部の教派が禅など他宗教の方法論を取り入れていること(や中南米等でのインカルチュレーション)への言及もあったほうがいいとおもいます。いかがですか。
- 文化史のなかのキリスト教
- 典礼、宗教芸術へのセクションがひとつほしいように思います。一部教派では、宗教芸術様式は広い意味での教会の教えのひとつです。またそうでないところでも、キリスト教が集会して礼拝を行う宗教である限りは、礼拝施設などに一定の特徴があること(ないならばないこと)など、言及があってしかるべきかと思います。
- 日本についての記述
- 思い切ってすべてを日本のキリスト教に移しませんか?LRさんが上で示唆されたように、この項目は世界宗教としてのキリスト教に話を絞り、東方布教や個別地域での展開は別記事にしたほうが収まりいいように思います。とくに上のような拡大拡充を行うなら、いまのままでは完成形が長大に過ぎるのではと危惧します。--Aphaia 2006年12月10日 (日) 09:35 (UTC)
- おおむね、賛成です。ただ、各教派の紹介も切り分けた方が良いかもしれません。プロテスタントとひとくくりにするな、というところが出て来そうです。一方、正教が詳述されているのが不思議です。神学的なバランスはとれているのでしょうか?Album 2006年12月10日 (日) 10:32 (UTC)
- 神学的には正教を含め東方神学は記述が足りない、と私は逆に考えています。ラテン教父を継承する西方神学のなかにカトリックとプロテスタント、ギリシア教父を継承する東方神学のなかに東方正教会、単性論、ネストリウス派を継承するアッシリア教会やカルケドン教会がある、そういう図式ですから。正教についての記述をかりこむと、記述が西方神学に偏るのでNPOVの観点からよろしくないと考えます。
- で、ここでNPOVからでは多数派少数派を同じく扱わないではないか、という反論はあるでしょう。カトリックが多数であるということはいいとして、次に問題になるのはプロテスタントと正教のバランスでしょうか。そして、信徒数でいえば全プロテスタント教会<東方正教会ですので、プロテスタント各教派を詳述しだすと、この項目の中ではバランスが取れなくなると感じます。伝統的教会と異なる点=理論の独自性を指摘した上で、プロテスタントの項目に詳細は譲るほうがよいでしょう。プロテスタント全体と東方正教会が等量くらいがバランスの上では方針から求められていて、プロテスタントについての記述は細かくやればきりがないのは知っていますが、それはここでは許容されないので。
- 東方神学についての記述が東方正教会に偏っているというご指摘ならばそのとおりだと思いますが、知らないものは詳述できませんので(単性論教会の神学について日本で資料を手にいれるのは非常に困難です)、当分の間はしょうがないでしょう。英語版等の執筆者の努力に期待したいところです。
- ところで教派間の紹介というのはどの部分を指しておられるのでしょうか。いくつかのセクションに分けてでてきていますので。--Aphaia 2006年12月10日 (日) 11:58 (UTC)
- プロテスタント各派の詳細なんてのは教派記事か大立者の伝記記事立てて逃がすのが本筋ですね。但し、それなら東にもローマにもいえることで、ここで字数の駆け引きしてる場合じゃないですよね。歴史が既に別項になっている以上、ここにまだ歴史に属する記事がある事のほうがナニカのマチガイでしょう。ここはエキュメニズムの核になる正統信仰の解説と、プロテスタントを全部ひっくるめるか精々宗教改革時から存続する三派に固めて「現在の」「世界的視野での」内容比較にするのがよろしいかと。日本の話も分割して伝来史、戦時中含む伝道史と現状の記事にしませんか。文化的影響も日本の事例はもって出るということで。LR 2006年12月10日 (日) 17:39 (UTC)
- 歴史に関する記述はある程度必要だと思います。でないと逆にエキュメも語れないんじゃないですか?
- ひとつ確認です、この場合の「正統信仰」は何を指しておられますか? これは人によってだいぶん認識が違うので、念のため。--Aphaia 2006年12月10日 (日) 22:12 (UTC)
- 『エキュメニズムの核になる正統信仰』では不十分でしたか。今日異端という言い方は大変評判が悪く、代わって「エキュメニズムの対象外」という風にいうので、なんとなく判るかと思いましたが。具体的には公会議で決まった基本信条を共有、広げてNCの理解共有までではないでしょうか。成文を嫌う癖があるところは中身で判断ということで如何。
- 歴史に関しては、日本語wikipediaのどこかに歴史の記述があってそこにリンク飛ばしさえすれば「読んでいる前提」で記述してよいものだと思いますよ。LR 2006年12月10日 (日) 23:04 (UTC)
- 用語法がずれてますね。確認しておいてよかった。NK共有ないしそれに近い理解をもつところ、ということでよろしいですね。つまり単性論教会なんかも、ここでは「正統信仰」にふくめると。
- これは大項目についての考え方ですが、完全に飛ばすのはうまくないと思います。やはり1記事である程度まとまったことを知ることができるのがよく、1記事に1セクションが対応するくらいで記述をしておくのが読者の便に資すると思います。ですので完全に除去するというのはよろしくありません。歴史記述なしに近現代の現象を理解できるというのは、無理のある発想じゃないかと思います。また教科書のキリスト教記述は結構うそがあるので、きちんとおさらいしていないと現代につながらないのではないでしょうか。言及された、エキュメニズムにしても、歴史記述なしに、たとえば、ふつうの歴史教科書ではいまだに雑駁に「異端」とされている単性論教会が特に中東・アフリカ地域でエキュメニズムで主導的な役割を果していることなどするっと理解できるのかなと疑問に思います。--Aphaia 2006年12月11日 (月) 08:54 (UTC)
- プロテスタント各派の詳細なんてのは教派記事か大立者の伝記記事立てて逃がすのが本筋ですね。但し、それなら東にもローマにもいえることで、ここで字数の駆け引きしてる場合じゃないですよね。歴史が既に別項になっている以上、ここにまだ歴史に属する記事がある事のほうがナニカのマチガイでしょう。ここはエキュメニズムの核になる正統信仰の解説と、プロテスタントを全部ひっくるめるか精々宗教改革時から存続する三派に固めて「現在の」「世界的視野での」内容比較にするのがよろしいかと。日本の話も分割して伝来史、戦時中含む伝道史と現状の記事にしませんか。文化的影響も日本の事例はもって出るということで。LR 2006年12月10日 (日) 17:39 (UTC)
- 私は◎を引いたつもりなので、単性論はNCOKアタナシオスカルケドンNGの、外円と内円の中間領域ですよね。これははっきりそう言っとく必要があると思います。なにも雑駁な教科書が間違っているわけでもないのではないですか。
- 歴史記述なしに近現代の現象を理解するのは不可能だと私も思います。だから、今日の全容を理解する気があるなら歴史記事を読んでから戻ってこいと思うんですよ。wikipediaはハイパーテキストなんですから途中に歴史記事(の特定章?)に飛ばす為だけの空の章を設けるなり何なりで「順路」は指示出来るんです。そして二個所に軽い歴史と重い歴史なんて重複記事はいらないでしょう。これは小項目主義ともちがうものだと本人は考えています。どうもあちこちに同じ事を書きたがる人とか、ましてそれを一覧性などという語で奨励したがる人は私には理解にくいんです(むしろ逆じゃないかと)。エキュメニズムに関してだって別記事立ってますから、「読んでから戻ってこい」の近代のトピックで、内容はここに置くべきではないと思っています。LR 2006年12月11日 (月) 10:32 (UTC)
- 単性論教会はWCCにも加盟してますし、神学的には西よりよほど東方正教会と近いです(1995年に教義の根本的一致についての宣言が出ています。また東方正教会全体ではありませんが、シリア等では完全共同倍餐の総主教区もあります)。なので、カルケドンOKから正統教義といっていいのかというのは観点の問題ですね。だからここで「正統教義」というくくりかたをするのは曖昧で面白くないなと思っています。正統教会といった場合に何をいれて何をいれていないのか、LRさんの書き方では教義理解を必ずしも共有しない私にとっては判然としないのです。LRさんが正統教義という場合の定義をもう一度お願いしたいです。しつこいかもしれませんが、私はほんとに理解できていませんし(一部プロテスタントとカトリックを考えておられるのだろうということはうっすら推測できますが)、これは「正統教義」を軸にというご提案を理解するうえでも大事な質問だと思っています。--Aphaia 2006年12月11日 (月) 12:52 (UTC)
- 西の認識では既に存在する記事正統教義の定義1が標準です。東方は「正」教会ならそこに入りますよね? その記事は私も推敲はしましたが、内容的には足しても引いてもいません(最後の項は相当に妥当性が低いです)。記事の最後についているエクスキューズもよく理解して、これを観点の問題になどしないでください。教理史・教会史の伝統として「そういうもの」なんです。その上で、実際に世界信条として機能しているのはNCだけだという観点から、外側にもう一本NCの線を引くんです、近代では。だから東方諸教会のWCC入りが可能で、カトリックと正教会がいるだけでも気に入らない福音派(WEA)の不興をますます買うんです。大体、何が正統かwikipediaや私が決めるわけではないのですから、そういう心臓に悪い詰問は勘弁してください。LR 2006年12月11日 (月) 16:41 (UTC)
- 附記、履歴当たったらその記事最初に起こしたの貴女じゃないですか。痛くない腹探られた気分になってますよ、いま(笑)。エキュメニズムの語に引きずられたんでしょうが、あれで結構ですし、それなりの根拠のある教科書を雑駁とかいわんでくださいよ(爆)。で、その古い城壁の外側に単性論がグレーゾーン、その先に新しい越えられない壁が有って所謂三大異端クラスはその外、他の聖書宗教は他の都市という感じでどうです?LR 2006年12月12日 (火) 02:20 (UTC)
- 詰問に取られたとしたらお詫びします。わたくしの口調の問題ですね。正統教義について書いたのはたしかに私なのですが、個人の理解と教科書的理解はまた別ですし、確認しておくにしくはないと思って。ついでにいうと、あれはルター派オーソドクシーに言及する必要があって作ったので、ああいうふうになっております(爆)。LRさんエキュメニズムという言葉にひきずられた感はあります;-) これはまあお互いあいこというのでいかがでしょう(ところでWCCは赤ですか。。)。
- で、話を戻しますと、まさに一覧性の観点から、歴史記述を少しは残したほうがいいといっています。疎な論述と精密な論述の役割は違うと思いますし、こうした基幹となる項目では疎な論述、一部コピーしてそれを通読すれば一応の理解が得られるような記述が必要だと思ってます。それはハイパーテキストかどうかということによらないと思います。精密な論述は必ずしも疎な大局的な論述の代わりにはなりません。--Aphaia 2006年12月12日 (火) 04:03 (UTC)
ユダヤ教・イスラム教との関係
編集出典が明らかでない記述が多いので、見るべきものもあるのですが、一度整理したほうがよいのではないかと思います。
妙に観念的な記述に終始していて、イスラム教との関係で当然書かれるべき「啓典の民」という視点がないのも気にかかっています。--Aphaia 2007年1月20日 (土) 12:35 (UTC)
「普通の人が知りたいこと」
編集ある方から「いまの項目は情報量が多いけれど、(キリスト教にななじみのない?)普通の人が知りたいことはあんまりないのではないか」という指摘を受けました。
それもあって少し書き足してみたのですが、今見直すとまだ足りないように思います。
- キリスト教由来とされる習俗との関係
- 教会に集まって何をやっているのか=礼拝/公祈祷の骨子
- 義務はあるのか(献金もここに含まれるのかも。一部の教派ではいまだにあるという什一献金のことも触れておいたほうがいいかもしれません、またヨーロッパにはまだある教会税)のことも
- 政治等との関係
あたりは記述してもいいのかなとおもっています。
それで、提案なんですが、ブレーンストーミングとして、「この記述がほしい」というのを持ち寄ってみませんか? そのあとで、他の項目に譲ること、いれること等を話し合うことにして、第一段階ではとにかくアイディアを出すところからはじめてみる。
どうでしょうか。--Aphaia 2007年1月21日 (日) 11:05 (UTC)
この記述がほしい
編集Aphaiaさんに私信で「普通の人が知りたいことがあんまり書かれていない」と意見してしまった手前、「キリスト教が発展した理由」という項目を書き加えてしまいました。キリスト教を外から見る人にとっては、知りたい項目だと考えます。ご意見、お願いします。
Aphaiaさんが加えた「キリスト教徒の生活」という項目は、やはり百科事典ですから必要でしょう。日曜学校が運営されて子ども相手に簡単な教義を教える、婦人会や壮年会などが任意の参加で組織されて施設・設備の維持、典礼の補助、学習活動、行事運営など教会活動の一翼を担っている、そういった、一般的な教会組織の話をもうちょっと書いたほうが良いかもしれませんね。少し考えてみます。
- ああ、当たり前すぎる割に忘れていました。その手の各小教区の年齢別組織、それからカトリックや東方正教会では国際レベルの青年の集まりがありますね。プロテスタントでも教団によってはそういうものがあるのかな。YMCAやYWCAはたしかもともとはプロテスタント系の活動だったと記憶していますが。修道会の相互交流国際研修もカトリックではあるそうですが、ああそれから修道会のお泊り観想会や日帰り訪問(修道院は案外気軽に尋ねていける場所だということはあまり知られていないのかも)。
- 教派内での交流はどのくらいあるのか、というのは一般的な組織の話をするとでてくるのかな。--Aphaia 2007年1月23日 (火) 14:54 (UTC)
信徒の義務ですが、カトリックの場合はクリスマスと復活祭のミサへの参加のほかに、四旬節の大斎小斎(断食をかなり簡略化したもの、一食抜く程度)、定期的な告解などがあったんですが、これを書くのは細かすぎますか?
ミサや礼拝で何を具体的にやっているのかという話は是非、書いておきたい項目ですね。
おーた 2007年1月23日 (火) 14:45 (UTC)
- 「世界宗教になった理由」ありがとうございます。典拠のある記述でそれなりの説得力があるように思います(エリアーデはまあ護教的かもしれないけども、すさまじく護教的ではないのでいいんでしょう)。
- カトリックは西方代表で書いていい気もするんですが、そういう決まりごとは古いところにしかない、そして西方は東方に比べればかなりゆるい、というよりむしろ西方は部分的には東方より厳しかったのが最近突然ゆるくなったということもあわせて書いておきたい気がします(中世の文献を読むと、小斎は週3回で、そのことを週2回の東方から非難されていたようであります。なお大斎小斎はすでに個別記事があります)。
- そしてそれを書くなら、ユダヤ教の伝統を引いて、一日に数度の定期的な祈祷の伝統があって、それはいまでも修道院などでは連綿と維持されている、ということも付け加えたほうがいいんでしょうかね……(東方は奉神礼に記述があります。聖務日課はまだですね……)。
- ミサ/聖体礼儀の基本的な構造はもっと明確に書いたほうがいいかもしれないですね。プロテスタントの主日礼拝も似たような構造を保持しているので、書くのはまあ有益かな。不十分ではありますが、少し書き足しておきました。思い切って改稿したほうがいいかも。ミサ・聖体礼儀はそれぞれそれなりの記述があったように思います。あるいはこの部分は信者の生活、ではなく、別の節をたてたほうがいいのかも。礼拝と祈祷、のような形で。
- 典礼の多様性ということも、どこかで加えられるといいですね。ラテン系、ビザンチン、アンティオキア、アレクサンドリア、あるいはラテン系でもアングリカン……そういったくらいのことですが。そうなると礼拝形式は生活についての記述から切り出したほうがいいのかもしれません。そのかわり教会生活について一般的な記述が増える、と……--Aphaia 2007年1月23日 (火) 15:36 (UTC)
いまある記述の見直し
編集- 「現代アメリカ」なんちゃらを整理したい
- 整理してみました。以前の記述は「アメリカ合衆国の現代キリスト教」の項目を立てて、そこに移しました。そのこと自体の是非や、体裁などのコメントお願いします。おーた 2007年1月26日 (金) 16:31 (UTC)
- ありがとうございます。体裁は少し手をいれました。プロテスタント教義史、教団史に詳しい方の登場を待ちたいと思います。
- なんどもいってますが、日本のキリスト教
- ある程度の歴史、布教に中世、明治から大正、第二次大戦後と大きく三つの波があること、現在の教勢などを書いたうえで、現在の記述を別項目に譲ってはどうでしょうか。
- また現在の記述をそのまま残す場合でも、項目の論理的レベルがすこしごちゃごちゃしているように思います。「戦後」>協派別・超教派の動きとしたほうがいいのじゃないかと思うのですが、いかがでしょう。
- 最近大規模な加筆がありましたので、その配置・記述の重複についても整理ができたらと思います。ご意見をお寄せください。
--Aphaia 2007年1月24日 (水) 07:05 (UTC)
- 近現代におけるキリスト教の展開
- 宗教改革、植民地布教からいきなりWCCは飛びすぎなんじゃないかと思えてきました。せめて次のようなことは書かれていいのじゃないかと思います。
- 啓蒙思想、理神論等、キリスト教の影響化から離れた思想の展開
- ローマ教会の世俗的・精神的権威の失墜(教皇領の喪失)
- フランス革命とその影響での西ヨーロッパの脱教会化、それに対抗する形でのウルトラモンタニズムとカトリックの反近代志向
- 海外宣教、はじめは対抗宗教改革、後にプロテスタントも
- 近代世界の社会的緊張と矛盾、無神論的思想の潮流、それに対する答えとしてのキリスト教の自己反省
- 無神論、共産主義、ロシア革命さらに東欧の共産主義化、キリスト教離れ
- ロシア革命関係はいまの教派史的な構成にやや入りづらいのですが、カトリックの後あるいは直前でしょうか。2バチは1960年代の話なので、前にもってきたほうがいいのかな。
- あと、これはおーたさんもおっしゃっておられますが、中国問題はぜひ記述がほしいです。これは基本的にカトリックの問題なので、となると、共産圏の成立をカトリックの改革の前に語って、カトリックの節を拡充するか、あるいは、中国問題は一番最後にもってくるか。
- あと、これは、以前、大変不評でひっこめたのですが「キリスト教系新宗教」が近世中期から現代まで多々成立している、ということもどこかでちらとは触れておきたいように思います。それはあるいは、「アブラハムの宗教」について触れている(私自身はあの節の意義がよくわからないのですが、ああいうことに関心を持つ方もいらっしゃるのだろうとおもって、あまり手を加えずに残してあります)ところを、他教との影響関係として改稿することもできるかなと考えます。--Aphaia 2007年1月27日 (土) 06:47 (UTC)
カトリック改革
編集- 「カトリック教会の改革」は出典つきで整理したい(特に相互倍餐問題)
- コメントアウトしてある箇所について。ルーテル/カトリックでミサを共同司式して、さらに相互倍餐する、という動きがオーストリアなどにはあると伝聞でききました。確実なソースではありませんので、コメントアウトした箇所を戻しておりません。またこの問題についてカトリック教会のなかにも「ドミヌス・イエズス」に象徴されるような反対の動きがあり、中立という観点からも、推進派と慎重派の双方を記述する必要、教皇庁の公式なゴーサインが出ているような問題ではないことは書かないとバランスを失するように思います。そして、こうした詳細なことは、あるいはこの項目で取り扱うようなことではなく、たんに他教会との対話が行われているとして詳細を別項に譲るのがあるいはふさわしいのかも知れません。Aph.
- 2002年に発行されている『カトリック教会のカテキズム』(Catechismus Catholicae Ecclesiae1997年版の翻訳)によれば、
- 東方教会との「典礼へのある程度の共同参加(コムニカチオ・イン・サクリス)は、ある適当な条件の下に教会権威の承認を得た上で、可能であるばかりではなく勧められることもあります」(1399節)。
- 宗教改革でカトリックから分離した諸教団については、「カトリック教会としてはこれらの教団と聖体拝領をともにすることはできません」(1400節)。
- 「さし迫った重大な必要がある場合、カトリックの教役者は教区司教の判断に従い、カトリック教会との完全な交わりにはなくとも、心底からこれを求めるキリスト者に(聖体、ゆるし、病者の塗油の)秘蹟を授けることができます」(1401節)
- だそうです。
- おーた 2007年1月24日 (水) 15:41 (UTC)
- CCC1339-1401英語からの引用ありがとうございます。1399は英語版とニュアンスが微妙に違いますが、まあそれは我々の問題でないのでいいでしょう。 1400は了解です。1399と1400をあわせて考えると使徒継承性のない教会での聖餐は事効的に有効でないという理解のようですね。1401をみると、これはどうも生命の危機にある人を想定しているようであります(1401は全訳ではありませんよね?)。
- 東方典礼の信者およびカトリック信徒の東方典礼での倍餐ですが、確か2バチの制定文書にも言及があったと思います。
- 1339節の引用箇所は『エキュメニズムに関する教令』15から。プロテスタントの聖餐式を認めていないのはApaiaさんが指摘するように使徒継承性の問題です。前回引用しませんでしたが、
- 宗教改革によって生まれた、カトリック教会から分離した諸教団は、「とりわけ叙階の秘跡の欠如のために、聖体の神秘の本来の完全な本体を保ちませんでした」(1401節、カギ括弧の中は『エキュメニズムに関する教令』22からの引用)
- です。ただし、この後にプロテスタントの聖餐式に意義があることは認めています。1401節は全文引用します。
- さし迫った重大な必要がある場合、カトリックの教役者は教区司教の判断に従い、カトリック教会との完全な交わりにはなくとも、心底からこれを求めるキリスト者に(聖体、ゆるし、病者の塗油の)秘蹟を授けることができます。その場合は、これらの秘跡に関するカトリックの信仰を表明し、必要な心構えができていなければなりません。(1401節、『新教会法典』第844条第4項参照)
- おーた 2007年1月28日 (日) 01:52 (UTC)
- 1339節の引用箇所は『エキュメニズムに関する教令』15から。プロテスタントの聖餐式を認めていないのはApaiaさんが指摘するように使徒継承性の問題です。前回引用しませんでしたが、
- 2002年に発行されている『カトリック教会のカテキズム』(Catechismus Catholicae Ecclesiae1997年版の翻訳)によれば、
使徒継承、実は赤リンクだったので、placeholder をおいてきました。みなさま随時手をいれていただけるとありがたく存じます。--Aphaia 2007年1月28日 (日) 09:47 (UTC)
- ところで、クリスマスと復活祭の年2回の聖体拝領が義務だということですが、それとCann.920.Sec.1との関係はどうなっているのでしょうか。矛盾するようにも思うのですが。--Aphaia 2007年1月24日 (水) 17:21 (UTC)
- えーと。「クリスマスと復活祭の年2回」というのは、私がいつだか教会で言われた話のようです。正式には「少なくとも復活祭の1回」でした。カテキズムで確かめてみます。おーた 2007年1月26日 (金) 16:41 (UTC)
- ありがとうございます。これは、私は福岡教区で受洗した方からも同じこと(クリスマスと復活祭は必ず聖体拝領)を聞いたことがあるので、根拠のない話ではないだろうとは思うのですね。ただ、どのレベルで決まっているかということなのではないかと思います。日本の司教団ではそう指導している、とかそういうことだとすると、カテキズムよりは縛りがきつくても、おかしくないかな。と(小斎も一応毎金曜日が奨励されてはおりましたよね)。--Aphaia 2007年1月26日 (金) 17:30 (UTC)
- えーと。「クリスマスと復活祭の年2回」というのは、私がいつだか教会で言われた話のようです。正式には「少なくとも復活祭の1回」でした。カテキズムで確かめてみます。おーた 2007年1月26日 (金) 16:41 (UTC)
どちらが正しいのでしょうか?
編集記事中に「世界におけるキリスト教徒の信者数は、1993年の集計で約21億人(うち、カトリック10億人、プロテスタント諸派計5億人、東方正教会2.4億人、その他教派2.75億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人をはるかに越えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。」とあります。
特に気にとめていなかったのですが、ノートを見ていたら
「次に問題になるのはプロテスタントと正教のバランスでしょうか。そして、信徒数でいえば全プロテスタント教会<東方正教会ですので、プロテスタント各教派を詳述しだすと、この項目の中ではバランスが取れなくなると感じます。」( 2006年12月10日 (日) 11:58 (UTC)Aphaia氏の記述)
とありました。まったく正反対のことがいわれていますが、どちらが正しいのでしょうか。(あるいは1993年から現在までに数億人単位の信徒数の増減があったということでしょうか?)もしAphaia氏の記述が正しければ本文を書き換えなければいけないと思うのですが・・・。よろしければ記述の出典もご教示いただけると幸いです。Gakuinryou 2007年1月24日 (水) 12:42 (UTC)
- そこ私も先ほど気がつきました。私が念頭においていたのはそれよりは古い統計で、1980年代のものだったと思います。博物館の展示でみましたので、資料として提示することは出来ません。本文中のほうが正しい可能性は高いと思います。不確かなことを書いて申し訳ありませんでした。
- プロテスタントは旧ソ連の崩壊後、とくに旧共産圏やアフリカなどで教勢を伸ばしているという話もあるので、もう少し最近の統計があるといいですね。
- さらに英語版などをみると、信者数についての統計には時期や統計を取った主体により、いくらか幅があるようです。統計の記述に出典がほしいというのは同感です。最近の『キリスト教新聞』あたりに、それらしい情報がありませんでしょうか>お手元においておられる方--Aphaia 2007年1月24日 (水) 12:51 (UTC)
「キリスト教に基づくとされている習俗」加筆提案
編集「結婚式」に関する過去の議論を読んで、少し考えました。「キリスト教に基づくとされている習俗」という項目を立ててその中で記述するのが宜しいように、私には思えます。また、百科事典ですから、キリスト教外部の人へのこうした説明はあった方が良いと考えます。ざっと、書いてみましたのでコメントお願いします。おーた 2007年2月2日 (金) 02:11 (UTC)
- 少し手を加えてみました。これ、キリスト教世界の習俗というより、「日本で知られているキリスト教世界の習俗」ですね。すこし日本視点によっているように思います。ペンテコステもヨーロッパではたいそうな祭りですが、ちょっとここに収まりづらい(幾つかの国では続く月曜日を含め公休日です)。枝の祭り、特定聖人の祭りなんかもそうです。一項を設けるのは賛成ですが、さらっと紹介して、「……このうち○○は近代以降日本にも紹介され、一部は日本の習俗として定着しつつある」とでも結び、以下は新規の項目として建ててはどうでしょうか。--Aphaia 2007年2月3日 (土) 07:50 (UTC)
- 参考までに教会暦の英語版の対応項目は、祭や節季に関連する習俗も取り込んだ内容となっているようです。--Aphaia 2007年2月4日 (日) 07:59 (UTC)
- ありがとうございます。前書きを追加してみました。各項目も、もう少し簡単な記述にしたほうが良いのかもしれません。おーた 2007年2月12日 (月) 14:13 (UTC)
新たなご意見が出なくなったので、本文へ移行させました。問題があれば、ここに差し戻してください。おーた 2007年2月25日 (日) 05:47 (UTC)
「キリスト教の文化的影響」の加筆提案
編集欧米の人にとっては当たり前のことも、非キリスト教文化圏の人間には書いておくべきことが多々あると思います。キリスト教の文化的影響も、そうした意味で書いておいたほうが良いと考えました。ただ、私の能力を超えてましたので下記に適当な話を並べています。どうか、加筆お願いします。 おーた 2007年2月2日 (金) 02:41 (UTC)
- 無謀にも「哲学への影響」「科学への影響」を追加しました。「文学への影響」を書き直しました。
新たな意見が出なくなったので、本文へ移行させました。問題があれば、ここに差し戻してください。おーた 2007年2月25日 (日) 05:46 (UTC)
キリスト教近代史部分への加筆提案
編集aphaiaさんも書かれていましたが、歴史としての記述は宗教改革から20世紀に飛んでいるので、さすがに問題があると思いました。キリスト教の歴史なども参考にしながら概説を書いてみました。これも加筆・コメントお願いします。 おーた 2007年2月2日 (金) 03:14 (UTC)
- キリスト教近現代史をまるごと改定してみました。これで宗教改革後から現代まで繋がると思うのですが。加筆・修正・コメントお願いします。おーた 2007年4月2日 (月) 13:05 (UTC)
- ここで直してから持っていく、んですよね? そのつもりで手を入れますが。LR 2007年4月2日 (月) 22:22 (UTC)
- はい。そのつもりで手を入れてください。おーた 2007年4月3日 (火) 13:55 (UTC)
(案文の末尾の書き込みを移動)参考文献を挙げてください。熱意はありがたいですが、経緯の錯綜や専門用語の誤りが散見されるので、貴方自身がお詳しいわけではなく、また、あまり良質のものをご覧になっていないとお見受けします。LR 2007年4月2日 (月) 23:04 (UTC)
- えーと。「宗教改革から20世紀まで何の記述も無い」という指摘があり、まことにその通りだと思って近現代キリスト教史の書き換えを提案したのですが、約2ヶ月間誰も手を出してくれないので無知を省みず自分で手を出してしまいました。識者の方がやっていただければ、私としては本望であります。また、私が書き足したところはさして多くなく、殆どの部分は既存の記事を圧縮したものです。その過程で無知と誤解から変なことになった部分が多々あるだろうことは承知しておりますので、よろしく修正ください。おーた 2007年4月3日 (火) 13:55 (UTC)
- 約一週間が経過し、新たなご意見も出ないので本文記事に移します。なにかあれば、そちらのほうで直してください。おーた 2007年4月10日 (火) 12:50 (UTC)
「近現代におけるキリスト教の展開」についての未執筆事項
編集本日、この節で議論した案文を記事へ移しましたが、下記の2点が 未執筆ですので記しておきます。
- アフリカにおけるカトリック近現代史
- 東方正教会の展開
コメントアウト
編集本文から転載、不要と思われるものは削除しました。元来は<>の位置にコメントアウトされていましたが、可読性を考慮し、抜粋しました。
- …人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが…キリストの死はこれを贖い…信じるものは罪の赦しを得て<>永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
- (赦しを受けても償いの義務を免れるわけではないが)? ←ん、じゃあ律法のもとで動物の生贄何度もささげなきゃね。じゃあ十字架はなんのため?(へブル9:25,26,28)。教派によってこれは異なるのではないですか。東方神学では「償い」はありません。カトリック独自の教義はカトリックの項目へどうぞ。
- …洗礼は…キリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから…その赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。<>
- (なお、赦しと償いは別物であり、赦しを得た後でも罪を償う義務は残る。)上でもコメントアウトしましたが、文意不明。告解を秘蹟とする教派でも、宗教的な償いの義務は東方教会になく、西方教会でもカトリックにのみ固有な教義であると認識しています。
出典を補う作業を行っています
編集秀逸な記事の再選考で指摘があったため、複数名で出典情報を書き加える作業を行っています。いままでに投稿なさった方は、ご自身が投稿した分に関しては責任がありますのでそこを優先して早急に出典を提示して下さい。その後、もし余裕がありましたら、他の人が投稿した分に関しても出典を加えていただけると幸いです。--Agapee 2007年10月28日 (日) 08:16 (UTC)
文献について
編集大事典の類として『新キリスト教辞典』(いのちのことば社)を挙げたところ、福音派なので他のものも挙げたほうがよいとのご指摘をBokemiann様からいただきましたので、カトリック系の資料として『新カトリック大事典』も掲載いたしました。あとは正教会系についても適切な大事典(あるいは同様の網羅的な資料)をご存知の方は挙げていただくとバランス上よろしいかと思います。--Agapee 2007年10月28日 (日) 08:16 (UTC)
独自研究のテンプレートが貼られてしまうような状況への対策 および今後の投稿について
編集「日本とキリスト教」の節ですが、Kremeさんによって独自研究のテンプレートが貼られてしまいましたね。確かに、出典が無い上に、実際にどこにも書かれていない記述が含まれているのかも知れません。指摘は謙虚に受け止めるべきでしょう。Wikipediaの規定では、そのような記述は文面から積極的に除去すべき、との方針も(完全には公式ではないものの)存在しています。そこで、その方針に沿って以下の一連の措置をとらせていただきます。
- {{fact}} を貼り付けられた文章(出典が欠如して、かつ内容に疑念を抱かれている文章)はコメントアウト(文面から排除)する。
- コメントアウトしたことにより、独自研究とのレッテルを貼られる事由が消滅。
- 事由が消滅したので、節冒頭の独自研究のテンプレートを除去。
以上の作業を私のほうで進めさせていただきます。そして残された文章についても、ひきつづき謙虚に出典を書き加えてゆく作業を皆様とともに続行したいと思います。
今後、コメントアウトされた文章を文面に復帰させたい方は、必ず出典を補った上でそうするようにして下さい。僭越ながら私のほうでもチェックさせていただきます。また、新たな文章の新規投稿についても同様に出典が付いているかチェックするようにさせていただきます。もしも新規投稿された段階で出典が欠如していたらコメントアウトすることになってしまうかと思いますので、どうかその点ご理解下さい。何卒宜しくお願い申し上げます。--Agapee 2007年10月28日 (日) 10:44 (UTC)
コメントアウトの中にあるコメントについて
編集本項目の充実に向けて、寄与されている皆様に深く敬意を表したいと思います。ただ、熱心の余りWikipedia:礼儀を忘れないに反する表現が、コメントアウト中のコメントに出てきているのが少し残念です。どうか、御自制ください。--おーた 2007年10月29日 (月) 13:37 (UTC)
教会籍について
編集現在の本文記事「組織」の項目を読むと、教会籍が日本固有の制度のようにも読めるののですが、教会籍にあたるものは欧米には無いのでしょうか?少なくとも、洗礼記録、結婚記録、死亡記録、(カトリックの場合ならこれに加えて初聖体、堅信礼)などは欧米の教会では管理されてきましたよね。このあたりの事情についてどなたか御教示いただければと思います。--おーた 2007年10月29日 (月) 13:59 (UTC)
- そう読んで頂くつもりで書きました。少なくとも同じシステムじゃないですね。あちらにあるのは教会の記録で、個人別になってません。メンバーシップも、会員を管理しているというより常連がいる、という感じです(選択の余地のない土地では別ですけれども)。それ「記録」であっても「籍」と呼べる運用じゃないでしょう? あとは、何を見ればそれがはっきりかいてあるかですが。LR 2007年10月29日 (月) 16:02 (UTC)
- 御教示ありがとうございます。何か文献はありますか?--おーた 2007年10月29日 (月) 22:16 (UTC)
- 教会籍の記述に参考文献を追加しました。manjushage 2007年10月30日 (火) 12:32 (UTC)
- 御教示ありがとうございます。何か文献はありますか?--おーた 2007年10月29日 (月) 22:16 (UTC)
「キリスト教に基づくとされる習俗」の節について
編集イメージ的に随分と肥大化してきましたね。写真群のファーストインプレッションがキリスト教のイメージとして読者に植え付けられる可能性があり、つまり誤解をまねく可能性があり、いささか問題ありと判断します。(←貢献して下さっている方に関して誤解を生む説明なので、書き手Agapee自身が打ち消しました)
以前から気になっていたことなのですが(←正確な説明のために追加)、この節は、実際にはキリスト教の核心とは関係ない記述が中心であり、" キリスト教が起源だろうと外部の人からは思われているようだけれど、実際は違いますよ "という主旨、つまり誤解を解こうとする記事がほとんどであり、キリスト教の項目としてはあくまで周辺的な話題です(本来、百科事典にはあまり掲載されない情報です)。このまま記事の中心部(心臓部)に配置するのはいかにも不適切だと判断します。(そもそもWikipediaにおいては「世間には○○という誤解があるけれど、事実ではありません」といったタイプの文章はいちいち書かないほうがよい、最初からシンプルに事実だけを中心に記述したほうが良い、という判断・判定がなされることが多いです。この節全体が、そのような(非公式の)方針にやや抵触する文章が中心です。
そこで、措置としては(削除しないまでも)せめて節ごと記事の最後尾に移動させることにいたします。
そうすれば、ちょうど「キリスト教の文化的影響」の直後ということになります。外部に向けての(文化的)影響に関する節の直後に、(反対向きの)外部からの影響(混交)の節が配置される、という点でも、ちょうど一対になっていて判りやすい配置となります。移動後は、記事前半に「教義」「組織」「歴史」といった百科事典らしい真面目な(硬い)内容が並ぶことになり、秀逸な記事らしい体裁ともなります。-Agapee 2007年10月31日 (水) 14:19 (UTC)
- Agapeeさんの主張はもよく分かりますし、正しいと思います。従って反論もいたしません。むしろ、「誤解をまねく可能性」がある画像を掲載したことを深くお詫びします。
- ただ一つ弁解させていただくならば、キリスト教に「基づくとされる」というタイトルから、読者も「ああ、これはキリスト教とは無関係な部分もあるんだな」と多少身構えて読むだろうと判断しました。それならば、「一般的なイメージはこの画像のようなものですが、真実ではありません」という内容で記事を書いていけばよいかと思っておりました。しかし、誤解を植え付けるという指摘は至極当然であります。今後気をつけます。manjushage 2007年10月31日 (水) 14:52 (UTC)
- 私の直感的な理解のしかた、および説明のしかたに問題がありました。曼珠沙華 様のご気分を害してしまったことを深くお詫びいたします。
- 上のやりとりをお読みの方々もどうか、そもそも以前から節の位置を移動したほうがよいと判断していたということとご理解下さい。曼珠沙華 様はあくまで「秀逸な記事の再選考」対策のために必要な作業、まっとうな作業(図の追加など)を行って下さっているのです。曼珠沙華 様は大きな貢献をして下さっていること、この項目の改善に不可欠な方、大切な方だということを、私のほうからあらためて強調させていただきます。申し訳ございませんでした。そして感謝しております。--Agapee 2007年10月31日 (水) 17:16 (UTC)
文化的影響の章
編集そのまた科学への影響の節なんですが、福音派外では途端に知名度が怪しくなる(大変失礼ですが、でもそうですよね)千代崎秀雄先生に代えて、ほぼ同じ事を言っている世界的な進化・古生物学者スティーヴン・グールドを嵌めたいのですが、いいでしょうか。少なくとも、猜疑的な読者に対する説得力は桁違いの筈です。足せばいいじゃないかというのも一説ですが、ちとクドくなりそうな気がするんです。LR 2007年11月1日 (木) 10:17 (UTC)
- その箇所を加筆したのは私です。別に異論はありませんのでご自由にどうぞ(ただし参考文献が明示されるのであれば、です)。記事の質が向上することを妨げる理由は何一つありません。manjushage 2007年11月1日 (木) 14:53 (UTC)
- グールドは科学史家としても広く認められた学者ですから、出典とするべきだと思います。それに千代崎先生ではキリスト教内部からの護教論に見えてしまうので、その意味でもグールド(ユダヤ系リベラルで、護教的宗教論議をやらなかった学者)の著作を出典とする方が説得力があります。--おーた 2007年11月4日 (日) 14:48 (UTC)
ユダヤ教・イスラム教との関係について
編集「ユダヤ教・イスラム教との関係」の節ですが、前々から「アブラハムの宗教云々」の記述が気になっていたので調べてみました。この概念はイスラーム固有の概念なので、中立性に欠けると思われます。また、まとまりが悪いのでこの節を書き換えてしまったほうが良いように思え、以下のような案文を書いてみました。出典は本文に組み込む際に整理するとして、どんなものでしょうか?なお、キリスト教がエビオン派を切り離してユダヤ教から離脱したという記述に関しては、手元の資料からは確認が取れませんでした。どなたかのご教示をお願いします。--おーた 2007年11月4日 (日) 14:38 (UTC)
エビオン派関連の資料が出てこなかったので、そのあたりを書き直してみました。ついでに、他も直しました。もう少し待って、異議が出なければ本文に組み込みます。--おーた 2007年11月9日 (金) 15:29 (UTC)
- 出典も充実しているので良いと思います。manjushage 2007年11月9日 (金) 15:45 (UTC)
- 出典が充実していて内容も百科事典らしくて素晴らしいですね。本文への組み込みに賛成いたします。感謝いたしております。--Agapee 2007年11月10日 (土) 04:29 (UTC)
(案文)
- 異議も出ず、賛同をいただきましたので、ここにあった案文は本文に移動しました。--おーた 2007年11月14日 (水) 13:07 (UTC)
告知
編集無事に再選考を通過しました。皆さんのご協力ありがとうございました--manjushage 2007年11月16日 (金) 15:46 (UTC)