ノアイユ賞(Prix Noailles)はフランスパリロンシャン競馬場で4月に行われる競馬の重賞。3歳馬だけが出走できる。2014年の格付けはG3。

ノアイユ賞
Prix Noailles
開催国 フランスの旗フランス
競馬場 パリロンシャン競馬場
創設 1878年
2014年の情報
距離 芝2100メートル
格付け G3
賞金 賞金総額8万ユーロ[1]
出走条件 3歳
負担重量 牡馬・騸馬 58kg
牝馬 56.5kg
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概要

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長い間、ノアイユ賞はジョッキークラブ賞(フランスダービー)のための重要なトライアル競走の一つだった。出走資格については2013年までは繁殖可能な牡馬牝馬に限られ、去勢された騸馬にはなかったが、2014年より騸馬にも出走資格が得られるようになった。

これらの一連の競走は、フランスのサラブレッドの資質向上のために編成されており、出生の条件によって出走の資格が定められていた。また、出走するためには、その馬が生まれる前から出走登録をして登録料を支払っておかなければならなかった(クラシック登録)。詳しくは後述する。

過去の優勝馬には、アジャックス(1904年)、ファリス(1939年)、ヴァルドロワール(1962年)、ルファビュリュー(1964年)、ベーリング(1986年)などのフランスの名競走馬・名種牡馬がいる。日本との関連では、種牡馬として輸入されて成功したものとしてヴィミー(1955年)、ダイアトム(1965年)、サンシー(1972年)などがいる。

プール・デ・プロデュイ

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長い間、ノアイユ賞は「プール・デ・プロデュイ(Poules des Produits)」と呼ばれる5競走の1つだった[2]

プール・デ・プロデュイはフランス馬種改良奨励協会(Société d'Encouragement)が、フランスダービー(ジョッキークラブ賞)の前哨戦として設立したもので、ノアイユ賞、ダリュー賞リュパン賞オカール賞グレフュール賞がこれに当たる[2]

リュパン賞を除いては、出走できる馬には父馬や母馬の産地に制限があった。ノアイユ賞は「フランス国外産の父馬による産駒」に限定されていて、ノアイユ賞に出走するためには出走馬が生まれるより前の母馬の胎内にいる間に登録しなければならなかった。ノアイユ賞の賞金はこの登録料で賄われていた[2]

歴史

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沿革

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  • 1878年 - ナボブ賞として創設。距離2500メートル。
  • 1896年 - ノアイユ賞に改称。
  • 1902年 - 2400メートルに変更。
  • 1915年 - 第一次世界大戦のため、1920年まで中止。
  • 1921年 - 再開。
  • 1940年 - 第二次世界大戦のため中止。
  • 1941年 - 再開。
  • 1943年 - トランブレー競馬場フランス語版で2150メートルで開催。
  • 1944年 - メゾンラフィット競馬場で2100メートルのダリュー・ノアイユ賞として開催。
  • 1945年 - メゾンラフィット競馬場で2100メートルのダリュー・ノアイユ賞として開催。
  • 1946年 - パリロンシャン競馬場で2100メートルのダリュー・ノアイユ賞として開催。
  • 1947年 - 2200メートルで再開。
  • 1971年 - グループ制導入。
  • 2005年 - クラシック再編に伴い2100メートルに変更。
  • 2011年 - 2000メートルに変更。
  • 2012年 - 2100メートルに変更。
  • 2014年 - 騸馬の出走資格を開放。
  • 2016年 - シャンティイ競馬場で代替開催。
  • 2017年 - シャンティイ競馬場で代替開催。

ナボブ賞

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ノアイユ賞は1878年に創設された。創設当時の名称はナボブ賞(Prix du Nabob)で、これは当時のフランスの名種牡馬ザナボブ(The Nabob)に由来する。創設時の施行距離は2500メートルだった[2]

ノアイユ賞

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1896年に、フランス馬種改良奨励協会(Société d'Encouragement)のメンバーであったアルフレド・ド・ノアイユ伯爵(1823-1895)を記念するために、競走の名称がノアイユ賞に改められた。ノアイユ伯はパリロンシャン競馬場の創設に重要な役割を果たした人物である[2]

第一次世界大戦の影響

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1914年の夏に第一次世界大戦が始まると、ドイツ軍はすぐさまフランスに向かって進軍してきた。ベルギーが2週間で攻め落とされ、ドイツ軍はパリへ砲撃するところまで攻め込んできた。

フランス国内では競馬を開催することは難しくなった。軍部は国内の馬を徴発して軍馬にしようとしたが、これを嫌った大勢の馬主や生産者は、馬をフランス国外に退避させることにした。このため、ノアイユ賞は1915年から中断することになった。この間、戦争の影響が少ないフランス南部や、中立国のスペインで代替競馬が行われた。

1919年の1月にパリ講和会議が開かれ、6月にヴェルサイユ条約が締結された。ノアイユ賞は1920年から再開された[2]

第二次世界大戦の影響

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1939年の秋にドイツがポーランドに進攻し、第二次世界大戦が始まった。フランス国内では秋競馬が中止になった。開戦当初、ドイツとの間ではにらみ合いが続いただけで実際の戦闘はほとんど行われなかったので、1940年の春には規模を縮小しつつ競馬が開催できる見通しがたった。

しかし5月になるとドイツ軍が一斉にフランス国内へ進攻してきた。一ヶ月ほどでパリも陥落した。前の大戦同様、多くの競走馬がドイツ軍に差し押さえられて連行された。その中には1939年のノアイユ賞の勝ち馬、ファリスもいた。1940年のノアイユ賞は中止となった。

占領軍は、パリ市民の平穏を保つためには、競馬を含めて日常生活を今までどおり開催させるほうがよいと考え、競馬の開催を許可した。結局1940年のクラシック競走は秋にまとめて行われた。

1941年からはパリロンシャン競馬場が使えることになり、1941年、1942年のノアイユ賞は一応例年通り行われた。この時期は飼料も不足して競走馬の頭数は大きく制限されたが、馬券の売り上げは大きく伸びた。1942年の勝ち馬アーコット(Arcot)はこの年無敗の活躍をした。

1943年になると、ドイツ軍はロシアや北アフリカで劣勢になってきた。連合軍はフランス国内へ空爆を行なっていたが、競馬場にはドイツ軍が高射砲を持ち込んでいたため、競馬場も空爆の対象になった。アーコットも出走する春の大レース、サブロン賞(現在のガネー賞)の当日にパリロンシャン競馬場がアメリカ軍機の爆撃を受け、観客に死者も出た。パリロンシャン競馬場での開催許可はドイツ軍によって取り消された。このため競馬はトランブレー競馬場で代替されるようになった。この年のノアイユ賞は、ダリュー賞と併せて、「ダリュー・ノアイユ賞(Prix Daru-Noailles)」としてトランブレー競馬場で2150メートルの競走として行われた[2]

1944年の夏に、連合軍によってパリが解放されたが、パリロンシャン競馬場はアメリカ軍の駐屯地になった。このため1944年と1945年にはメゾンラフィット競馬場で距離2100メートルの「ダリュー・ノアイユ賞」が行われた。1945年の秋にはパリロンシャン競馬場が使えるようになり、1946年にはパリロンシャン競馬場でダリュー・ノアイユ賞が行われた[2]

ノアイユ賞が単独で開催されたのは1947年になってからだが、戦前の2400メートルから、2200メートルに短縮して行われることになった。この距離は2005年にクラシック戦線の見直しが行われるまで維持された[2]

記録

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フランスダービーとの関連

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ノアイユ賞優勝馬がフランスダービーに勝ったのは、1879年のズー(Zut)を皮切りに、2001年アナバーブルー(Anabaa Blue)まで12頭いる。このほか2着が17頭、3着が6頭出ている[2]

牝馬の成績

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第一次世界大戦前までは牝馬の出走は珍しくないことで、7頭が優勝している。このうち1891年のプリムローズ(Primrose)はディアヌ賞に勝った[2]

2012年現在でも牝馬の出走は可能だが、出走は稀である。最後に入着したのは1942年に2着になったヴィジランス(Vigilance)である[2]

歴代勝ち馬

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  • 距離はメートル
  • 表中の「*」は日本輸入馬を示す。(多くは種牡馬だが、ジャパンカップ出走のため一時的に輸入されたものも含む。)
  • 馬名が太字のものはフランスダービー(ジョッキークラブ賞)優勝馬。
施行年 距離 優勝馬 備考
1878 2500 Clementine ナボブ賞創設
1879 2500 Zut
1880 2500 Pacific
1881 2500 Forum
1882 2500 Cimier
1883 2500 Vernet
1884 2500 Pi Ouit
1885 2500 Aïda
1886 2500 Verdière
1887 2500 Gournay
1888 2500 Walter Scott
1889 2500 Achille
1890 2500 Alicante
1891 2500 Primrose
1892 2500 Saint Michel
1893 2500 Chapeau Chinois
1894 2500 Ravioli
1895 2500 Cherbourg
1896 2500 Riposte ノアイユ賞に改称
1897 2500 Flacon
1898 2500 Le Guide
1899 2500 Maurice
1900 2500 Royal
1901 2500 Tibere
1902 2400 Glacier
1903 2400 Quo Vadis
1904 2400 アジャックス
1905 2400 Jardy
1906 2400 Querido
1907 2400 La Serqueuse
1908 2400 Souvigny
1909 2400 Aveu
1910 2400 Aloes III
1911 2400 Combourg
1912 2400 Imperial
1913 2400 Vulcain
1914 2400 Durbar
1915 中止
1916 中止
1917 中止
1918 中止
1919 中止
1920 2400 Pendennis
1921 2400 Meisonnier
1922 2400 Kibar
1923 2400 Grand Guignol
1924 2400 Irismond
1925 2400 Red Hawk
1926 2400 Biribi
1927 2400 Fenimore Cooper
1928 2400 Le Correge
1929 2400 Dark Times
1930 2400 Chateau Bouscaut
1931 2400 Brasik
1932 2400 Bosphore
1933 2400 Bengal
1934 2400 Zenodore
1935 2400 Bouillon
1936 2400 Fastnet
1937 2400 Actor
1938 2400 Anchois
1939 2400 ファリス
1940 中止
1941 2400 Nepenthe
1942 2400 Arcot
1943 2150 Norseman トランブレー競馬場で開催
1944 2100 Prince Bio ダリュー・ノアイユ賞として、メゾンラフィット競馬場で開催
1945 2100 His Eminence ダリュー・ノアイユ賞として、メゾンラフィット競馬場で開催
1946 2100 Prince Chevalier ダリュー・ノアイユ賞として、パリロンシャン競馬場で開催
1947 2200 Giafar
1948 2200 Flush Royal
1949 2200 Rancio
1950 2200 Lacaduv
1951
1952 2200 Corindon
1953 2200 Faublas
1954 2200 Le Grand Bi
1955 2200 *ヴィミー
1956 2200 タネルコ
1957 2200 Weeping Willow
1958 2200 Noelor
1959 2200 Cousu d'Or
1960 2200 Le Ventoux
1961 2200 マッチ
1962 2200 Val de Loir
1963 2200 Calchaqui
1964 2200 Le Fabuleux
1965 2200 *ダイアトム
1966 2200 Premier Violon
1967 2200 Roi Dagobert
1968 2200 リュティエ
1969 2200 *グッドリー
1970 2200 Dragoon
1971 G2 2200 Maryambre
1972 G2 2200 *サンシー
1973 G2 2200 Eddystone
1974 G2 2200 D'Arras
1975 G2 2200 Val de l'Orne
1976 G2 2200 Twig Moss
1977 G2 2200 Catus
1978 G2 2200 Gracias
1979 G2 2200 High Sierra
1980 G2 2200 Julius Caesar
1981 G2 2200 Lydian
1982 G2 2200 *ペルセポリスII
1983 G2 2200 Jeu de Paille
1984 G2 2200 Cariellor
1985 G2 2200 Glaros
1986 G2 2200 ベーリング
1987 G2 2200 Sadjiyd
1988 G2 2200 Nerio
1989 G2 2200 *ダンスホール
1990 G2 2200 Intimiste
1991 G2 2200 Pistolet Bleu
1992 G2 2200 Grand Plaisir
1993 G2 2200 Fort Wood
1994 G2 2200 Gunboat Diplomacy
1995 G2 2200 Walk on Mix
1996 G2 2200 エリシオ
1997 G2 2200 Fragrant Mix
1998 G2 2200 Special Quest
1999 G2 2200 Slickly
2000 G2 2200 Kutub
2001 G2 2200 アナバーブルー
2002 G2 2200 バリンガリー英語版
2003 G2 2200 Super Celebre
2004 G2 2200 Voix du Nord
2005 G2 2100 Ruwi
2006 G2 2100 Gentlewave
2007 G2 2100 ソルジャーオブフォーチュン
2008 G2 2100 Full of Gold
2009 G2 2100 Grandcamp
2010 G2 2100 Planteur
2011 G2 2000 Grand Vent
2012 G2 2100 Hard Dream
2013 G2 2100 Tableaux
2014[3] G3 2100 Gailo Chop[4]
2015[5] G3 2100 Karaktar
2016[6] G3 2100 Raseed シャンティイ競馬場で開催
2017[7] G3 2100 Soleil Marin シャンティイ競馬場で開催
2018[8] G3 2100 Pharrell
2019[9] G3 2100 Slalom
2021[10] G3 2100 Cheshire Academy
2022[11] G3 2100 Junko
2023[12] G3 2100 Flight Leader
2024[13] G3 2100 Calandagan

騎手

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2012年現在の最多勝利騎手はフレディ・ヘッド騎手の6勝[2]

調教師

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2012年現在の最多勝利調教師はアンドレ・ファーブル調教師の9勝[2]

馬主

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2012年現在の最多勝利馬主は4勝で2名いる[2]

競走名の由来

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名種牡馬ザナボブ

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ザナボブ(The Nabob)は1849年にイギリスのハンプトンコート王室牧場で生産された[2][14]

ザナボブの競走成績は26戦して6勝、主な勝鞍はチェスターフィールドカップ(4歳時)で、このほか多くの競走で入着した。入着したなかで代表的なものは、アスコット金杯での2着(優勝馬は三冠馬ウェストオーストラリアン)である[2][15]

ザナボブはイギリスで短期間種牡馬として使われ、アスコット金杯を勝ったルピー(Rupee)を出した。1857年にフランスに輸出され、マンシュ県マルタンヴァ英語版で繋養された[2]

3万フランでアルチュール・ド・シークラー(Arthur de Schickler)男爵に購入されるとすぐに、産駒からショワジールロワ(Choisy le Roi、1862年リュパン賞優勝)やスズラン(Suzerain、1868年フランスダービー優勝)が登場した。ザナボブの産駒でフランスダービーを勝ったのは、このショワジールロワを含めて5頭[2][15]出た。

産駒で最も有名なのは、1860年生まれのボワルセル(Bois-Roussel、※1935年生まれのボワルセルとは同名異馬)とヴェルムート(Velmouth[注 1])である。ボワルセルは1864年にリュパン賞とフランスダービーを勝ち、ヴェルムートはパリ大賞典でイギリスダービー馬を破って歴史的な勝利を挙げた。両馬の馬主は、ド・シークラー男爵のライバルのアンリ・デルマーレ(Henri Delamarre)だった[2][15]

ノアイユ家

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ノアイユ賞の名前になったのは、1895年に亡くなったノアイユ伯爵を記念したものである。このほかフランスの競馬史上には特筆すべき「ノアイユ家」の人物が4人いる。

アルフレド・ド・ノアイユ伯爵

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アルフレド・ド・ノアイユ伯爵(1886年のLe Triboulet紙)

1896年に競走名をノアイユ賞に改めたのは、前年に亡くなったアルフレド・ド・ノアイユ伯爵(Comte Alfred de Noailles、1823-1895)を追悼するためである[2]

大使館の秘書をしていたド・ノアイユ伯爵は、1848年にフランスジョッキークラブに加入した。1850年には馬種改良奨励協会のメンバーになり、特に1857年のロンシャン競馬場の創設にあたって、パリ市との折衝で重要な役割を担った。1860年には執行役員[注 2]となり、主に裁決委員として活躍した。晩年の1890年にはジョッキークラブの副会長を務めた[2]

エマニュエル・ド・ノアイユ侯爵

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ド・ノアイユ伯爵の叔父に当たるエマニュエル・ド・ノアイユ英語版侯爵(1743-1822)は、馬種改良奨励協会の副理事を務めていた。1856年にはマルク・ド・ボーヴォー公フランス語版と共同で所有していたリオン(Lion)でフランスダービーを制覇している[2]

エマニュエル・ド・ノアイユ侯爵は、1858年に外交官としてフランス国外に赴任するため、奨励協会を辞任せざるを得なかった。侯爵の外交官として最も有名な職務は駐ベルリン大使だったが、ほかにもウィーンやローマの大使を歴任した[2]

モーリス・ド・ノアイユ公爵

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アドリアン・モーリス・ド・ノアイユ英語版公爵は1897年に馬主になると、いきなり持ち馬のフィープランタン(Fee Printemps)がヴァントー賞英語版に勝ち、ディアヌ賞でも4着に入る活躍をした。緑地に赤と緑のストライプの袖、赤い帽子というのが公爵の勝負服だった[2]

この後まもなく公爵はノアイユ家の所領であるウール=エ=ロワール県マントノン城フランス語版で競走馬の生産を始めた。1902年にはイギリスからレイヴンスベリー(Ravensbury)を輸入して種牡馬とした。レイヴンスベリーは不運にも三冠馬アイシングラスと同じ年に生まれ、三冠戦すべてで2着だった。レイヴンスベリーの生涯成績は27戦7勝だが、そのうち8戦はアイシングラスに敗れたものだった。レイヴンスベリーの父はアイシングラスと同じアイソノミーで、母は二冠馬ショットオーヴァーの全姉だった。しかし、レイヴンスベリーは種牡馬としては失敗に終わった[2]

モーリス・ド・ノアイユ公爵は1926年に馬種改良奨励協会の執行役員になった[2]

フランソワ・ド・ノアイユ公爵

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若い頃からアマチュアの騎手として名声を得ていたフランソワ・ド・ノアイユ公爵英語版は、1954年に奨励協会の執行役員となった。公爵は1956年から1969年、1972年から1975年、そして1978年から1981年に裁決委員を務めた[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 出典によって「Velmouth」、「Velmout」と綴りが2通り見受けられる。語源はアルコールのベルモットである。ここでは「Velmouth」を採った。サラブレッド・ヘリテイジ ヴェルムート2013年3月13日閲覧。
  2. ^ 英文では「executive member」で、直訳すると「執行社員、執行会員」のようになる。原語(フランス語)は不明。

出典

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  1. ^ ICSC 2014 France2014年12月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ノアイユ賞の歴史” (英語). フランスギャロ. 2013年3月9日閲覧。
  3. ^ 2014年レース結果 - racingpost、2014年4月22日閲覧
  4. ^ Gailo Chop競走成績 - racingpost、2014年4月23日閲覧
  5. ^ 2015年レース結果 - racingpost、2015年4月22日閲覧
  6. ^ 2016年成績 - racingpost、2016年4月21日閲覧
  7. ^ 2017年成績 - racingpost、2017年4月17日閲覧
  8. ^ 2018年結果 - racingpost、2018年4月17日閲覧
  9. ^ 2019年ノアイユ賞”. レーシングポスト (2019年4月14日). 2019年4月16日閲覧。
  10. ^ Full Result 3.45 Longchamp (FR) | 11 April 2021” (英語). racingpost.com. Racing Post. 2023年4月9日閲覧。
  11. ^ 2022年ノアイユ賞”. レーシングポスト (2022年4月17日). 2022年4月18日閲覧。
  12. ^ 2023年ノアイユ賞レーシングポスト、2023年4月16日配信・閲覧
  13. ^ 2024年ノアイユ賞レーシングポスト、2024年4月14日配信・閲覧
  14. ^ グラウコス” (英語). サラブレッド・ヘリテイジ. 2013年3月13日閲覧。
  15. ^ a b c ヴェルムート” (英語). サラブレッド・ヘリテイジ. 2013年3月9日閲覧。

参考文献

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  • フランス・ギャロ公式HPノアイユ賞の歴史2013年3月9日閲覧。
  • 『フランス競馬百年史』 ギイ・チボー・著、真田昌彦・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、2004
  • 『凱旋門賞の歴史』第1巻(1920-1951)アーサー・フィッツジェラルド・著、草野純・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、1995