ニコラス・プラット

アメリカ合衆国の外交官

ニコラス・プラット(Nicholas Platt, 1936年3月10日 - )は、アメリカ合衆国外交官。駐パキスタン大使、駐フィリピン大使、駐ザンビア大使を歴任。カナダ、中国、香港、日本に上級外交官として駐在。

経歴

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ニューヨーク州ニューヨークにて誕生[1]。1957年にハーバード大学で学士号を取得[1]。1959年にジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究院で修士号を取得[1]

ワシントン外交政策研究センターにて研究助手を務めた後、1959年に国務省外交局に入省[2]。1959年から1961年までカナダのウィンザーに副領事として駐在[2]。外務研修所(1962年から1963年まで)や台湾台中の米国務省中国語研修所(1963年から1964年まで)にて中国語を受講[2]。1964年から1968年まで香港総領事館に政治担当官として駐在[2]。1968年から1969年まで東アジア・太平洋局中国部に勤務[2]

1969年から1971年まで情報調査局アジア共産主義地域部部長[2]。1971年から1973年まで秘書課副課長・課長[2]。1973年から1974年まで在中国北京連絡事務所政治部部長[2]。1974年から1977年まで在日本大使館政治部副部長[2]。1977年から1978年まで東アジア・太平洋局日本部部長[2]。1978年から1980年まで国家安全保障会議職員(アジア担当)[1]。1980年から1981年まで国防次官補代理(国際安全保障問題担当)[2]。1981年から1982年まで国務次官補代理(国際機構担当)[2]

1982年から1985年まで駐ザンビア大使[3]。1985年から1987年まで国務省事務局長[3]。1987年から1991年まで駐フィリピン大使[3]。1991年から1992年まで駐パキスタン大使[3]

国務省退官後は、1992年から2004年までアジア・ソサエティ会長を務め、2004年には名誉会長[4]

著書

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  • China Boys: How U.S. Relations with the PRC Began and Grew—A Personal Memoir (New Academia Pub/VELLUM Books, 2010)

書名は1972年にリチャード・ニクソン大統領が中国を訪問した際、若き中国専門家として政府代表団に加わったプラットに対し「君たち、チャイナ・ボーイズはこれからもっと多くのことをやるだろう」とニクソンから励まされたことに由来する[5][6]

家族

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父親はオランダ系アメリカ人を祖先とする建築家ジェフリー・プラット (Geoffrey Platt)。母親はヘレン・チョート (Helen Choate)。シエラ・メイナード (Sheila Maynard) と結婚し、以下の子供をもうけた。

  1.   アダム・プラット (Adam Platt)
  2.   オリヴァー・プラット (Oliver Platt) 俳優。
  3.   ニコラス・プラット (Nicholas Platt Jr.)

また、プラットの高祖父母(父親の母の祖父母)に、新島襄が渡米時に乗船したワイルド・ローヴァー号の船主で、新島のフィリップス・アカデミーアマースト大学進学を支援したアルフィーアス・ハーディー(Alpheus Hardy 1815-1887)とスーザン・ホームズ・ハーディー(Susan Warner Holmes=Mrs. Alpheus Hardy 1817-1904)がいる[7][8]

出典

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  1. ^ a b c d Nicholas Platt”. NNDB. 2011年3月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Nomination of Nicholas Platt To Be United States Ambassador to the Philippines”. Ronald Reagan Presidential Library (1987年4月22日). 2016年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年3月10日閲覧。
  3. ^ a b c d Nicholas Platt”. United States Department of State. 2011年3月10日閲覧。
  4. ^ Nicholas Platt | Asia Society”. 2024年10月8日閲覧。
  5. ^ (ワシントン=園田耕司) (2022年5月21日). “米中つないだ「チャイナ・ボーイズ」 ニクソン訪中から考えるヒント:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル(有料記事). 2024年10月8日閲覧。
  6. ^ Nicholas Platt (2010). “Prologue”. China Boys: How U.S. Relations with the PRC Began and Grew—A Personal Memoir. New Academia Pub/VELLUM Books. ISBN 978-0984406227 
  7. ^ 西邨 辰三郎 (1975年6月). “奇しき邂逅―アルフュース・ハーディ氏玄孫ニコラス・プラット氏との不思議な出会い” (pdf). 同志社時報 (学校法人同志社発行) (第55号): pp.49-53. https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-407/140849/file/55kushikikaiko.pdf. 
  8. ^ 礒英夫 (2011-02-28). “アルフィーアス・ハーディーの系譜 : 祖父ジョシアの代から現代につながる子孫まで”. 新島研究 (同志社大学同志社社史資料センター) (102号): 135-165 p. https://doshisha.repo.nii.ac.jp/records/22077. 
公職
先代
ウィリアム・コートニー・シャーマン
アメリカ合衆国国務省東アジア・太平洋局日本部長
1977年8月 - 1978年7月
次代
アラン・ロンバーグ
先代
チャールズ・ヒル
アメリカ合衆国国務省事務局長
1985年1月7日 - 1987年2月13日
次代
メルヴィン・レヴィツキー
外交職
先代
フランク・ジョージ・ウィズナー
在ザンビアアメリカ合衆国大使
1982年8月31日 - 1984年12月17日
次代
ポール・ジュリアン・ヘア
先代
スティーヴン・ウォーレン・ボズワース
在フィリピンアメリカ合衆国大使
1987年8月27日 - 1991年7月20日
次代
フランク・ジョージ・ウィズナー
先代
ロバート・ビッガー・オークリー
在パキスタンアメリカ合衆国大使
1991年10月24日 - 1992年11月3日
次代
ジョン・キャメロン・モンジョ