ドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932
ドイチェ・フースバルマイスターシャフト 1931-1932 はドイツサッカー協会によって開催された第25回目のクラブチーム全国大会である。FCバイエルン・ミュンヘンが初優勝し、1回目のドイチャー・フースバルマイスターの座に就いた[1][2][3]。
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シーズン | 1931-1932 |
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優勝 |
FCバイエルン・ミュンヘン (1回目) |
試合数 | 15 |
ゴール数 | 72 (1試合平均4.8) |
得点王 |
![]() (7点) |
概要
編集数多くの失望的な結果を経て、ついにミュンヘンのクラブが初優勝した[4]。南部2位FCバイエルン・ミュンヘンは決勝で同じ南部王者アイントラハト・フランクフルトを2-0で下したが、このカードは六週間前に行われたズュートドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932決勝戦のリターンマッチであり、南部制覇を逃したバイエルンにとってリベンジだったのである。DM決勝戦での南部対決は、ヴァイマル共和制時代では1920年・1925年に続き三度目だった。
今季も多くの波乱があった。前回王者ヘルタBSCは、ベルリナー・フースバルマイスターシャフト1931-1932において1次リーグのベツィルク・ベルリン=ブランデンブルクで敗退。昨季準優勝のTSV1860ミュンヘンもズュートドイチェ・フースバルマイスターシャフト1932-1933の決勝リーグで6位に終わり、それぞれ全国出場権獲得に失敗した。その一方でボルシア・フルダ、ミネルヴァ93ベルリン、 プラオエナーSuBC、 SVヒンデンブルク・アレンシュタイン、 PSVケムニッツ、ヴィクトリア・シュトルプといった新顔たちが全国デビューした。
昨季に続いて世界大恐慌はドイツ経済を苦しめており、サッカーの観客数はさらに減少した。国民社会主義ドイツ労働者党の政権獲得は、いよいよ現実味を帯びてきていた。今季はそのナチスによって解体されることとなる、DFB以外の非主流派団体が全国サッカー大会を開催できた、最後のシーズンであった。労働者体操・スポーツ協会はTSVニュルンベルク=オスト、赤色スポーツ統一闘争共同体はFTイェスニッツが優勝。ドイツ青年活力は五年ぶりに大会を開催し、中断前最後の王者DJKシュパルタ・ニュルンベルクが優勝した。
クラブ | 出場資格 |
SVヒンデンブルク・アレンシュタイン | バルティッシェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932優勝 |
ヴィクトリア・シュトルプ | バルティッシェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932準優勝 |
ボイテナーSuSV09 | ズュートオストドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932優勝 |
ブレスラウアーSC08 | ズュートオストドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932準優勝 |
テニス・ボルシア・ベルリン | ベルリナー・フースバルマイスターシャフト1931-1932優勝 |
ミネルヴァ93ベルリン | ベルリナー・フースバルマイスターシャフト1931-1932準優勝 |
PSVケムニッツ | ミッテルドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932優勝 |
プラオエナーSuBC | ミッテルドイチャー・ポカール1931-1932優勝 |
ハンブルガーSV | ノルトドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932優勝 |
ホルシュタイン・キール | ノルトドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932準優勝 |
FCシャルケ04 | ヴェストドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932優勝 |
ボルシア・フルダ | ヴェストドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932準優勝 |
VfLベンラート | ヴェストドイチャー・フェアバンツポカール1931-1932優勝 |
アイントラハト・フランクフルト | ズュートドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932優勝 |
FCバイエルン・ミュンヘン | ズュートドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932準優勝 |
1.FCニュルンベルク | ズュートドイチェ・フースバルマイスターシャフト1931-1932三位 |
ラウンドオブ16
編集開催日 | 試合 | 結果 | 会場 | ||
1932年5月8日 | 1. FCニュルンベルク | – | ボルシア・フルダ | 5–2 (2–0) | フュルト, プラッツ・アム・ロンホーファー・ヴェーク |
1932年5月8日 | ハンブルガーSV | – | VfLベンラート | 3–1 (1–0) | ハンブルク=アルトナ, アルトナー・シュタディオン |
1932年5月8日 | FCバイエルン・ミュンヘン | – | ミネルヴァ93ベルリン | 4–2 (1–1) | ミュンヘン, 1860=ハインリヒ=ツィッシュ=シュターディオン |
1932年5月8日 | FCシャルケ04 | – | プラオエナーSuBC | 5–4 aet (2–1, 4–4) | ドルトムント, カンプフバーン・ローテ・エアデ |
1932年5月8日 | SVヒンデンブルク・アレンシュタイン | – | アイントラハト・フランクフルト | 0–6 (0–4) | ケーニヒスベルク, Platz des VfB |
1932年5月8日 | テニス・ボルシア・ベルリン | – | ヴィクトリア・シュトルプ | 3–0 (2–0) | ベルリン, シュタディオン・バーンホーフ・アイヒカンプ |
1932年5月8日 | ブレスラオアーSC08 | – | ホルシュタイン・キール | 1–4 (0–2) | ブレスラウ, シュポルトパルク・グリューナイヒェ |
1932年5月8日 | PSVケムニッツ | – | ボイテナーSuSV | 5–1 (3–0) | ブラウンシュヴァイク, プロイセン=プラッツ |
準々決勝
編集開催日 | 試合 | 結果 | 会場 | ||
1932年5月22日 | FCシャルケ04 | – | ハンブルガーSV | 4–2 (2–1) | ボーフム, シュタディオン・カストロパー・シュトラーセ |
1932年5月22日 | ホルシュタイン・キール | – | 1. FCニュルンベルク | 0–4 (0–2) | ハンブルク, シュポルトプラッツ・ホーエルフト |
1932年5月22日 | アイントラハト・フランクフルト | – | テニス・ボルシア・ベルリン | 3–1 (1–1) | フランクフルト・アム・マイン, リーダーヴァルトシュタディオン |
1932年5月22日 | PSVケムニッツ | – | FCバイエルン・ミュンヘン | 2–3 (1–3) | ライプツィヒ, Platz von Wacker Leipzig |
準決勝
編集開催日 | 試合 | 結果 | 会場 | ||
1932年5月29日 | FCバイエルン・ミュンヘン | – | 1. FCニュルンベルク | 2–0 (0–0) | マンハイム, マンハイマー・シュタディオン |
1932年5月29日 | アイントラハト・フランクフルト | – | FCシャルケ04 | 2–1 (1–1) | ドレスデン, シュタディオン・オストラーゲヘーゲ |
決勝
編集FCバイエルン・ミュンヘン | 2–0 | アイントラハト・フランクフルト |
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レポート |
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ルール |
選手 | クラブ | 試合数 | 得点数 | |
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1. | カール・エーマー | アイントラハト・フランクフルト | 4 | 7 |
2. | エアヴィン・ヘルムヒェン | PSVケムニッツ | 2 | 5 |
3. | オスカー・ローア | FCバイエルン・ミュンヘン | 4 | 5 |
4. | エミル・ロートハート | FCシャルケ04 | 3 | 4 |
5. | ゲオーク・フリーデル (サッカー選手) | 1. FCニュルンベルク | 3 | 3 |
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ Dinant Abbink (27 Apr 2023). “Germany - Championships 1902-1945” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ “Deutsche Meisterschaft 1931/1932 » Finale” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
- ^ a b “Germany 1931/32” (英語). RSSSF. 2025年2月5日閲覧。
- ^ リヒテンベルガー/秋吉 2005, 71頁
- ^ “Deutsche Meisterschaft 1931/1932 » Torschützenliste” (ドイツ語). weltfussbal.de. 2025年2月5日閲覧。
参考文献
編集- ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガー 秋吉香代子訳 (2005). ブンデスリーガ ドイツサッカーの軌跡. バジリコ株式会社. ISBN 4-901784-92-7