トンマーゾ・ミナルディ
トンマーゾ・ミナルディ(Tommaso Minardi、1787年12月4日 - 1871年1月12日)はイタリアの画家である。新古典主義から、ロマン主義の時代の画家で、ファエンツァ、ローマ、ペルージャなどで活動した。
トンマーゾ・ミナルディ Tommaso Minardi | |
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Carl Adolf Senffによる肖像画 | |
生誕 |
1787年12月4日 イタリア、ファエンツァ |
死没 |
1871年1月12日 (83歳没) イタリア、ローマ |
略歴
編集エミリア=ロマーニャの街、ファエンツァで生まれた。父親は薬剤師であった[1]。ファエンツァでジュゼッペ・ザウリ(Giuseppe Zauli)という画家に絵を学び、ザウリと地元の著作家ストロッチ(Dionigi Strocchi)の尽力で1803年から1810年の間、地元の信仰の組合(Congregation of San Gregorio)から奨学金を受けた。ストロッチから有力な一族キージ家のジギスモンド・キージ(Sigismondo Chigi Albani della Rovere, VI principe di Farnese)への紹介状を書いてもらいローマにでた[2]。1810年に美術コンクールで優勝し、ボローニャの美術アカデミーから3年間ローマで学ぶ奨学金を得た。
ローマではフェリーチェ・ジアーニ(Felice Giani: 1758–1823) やヴィンチェンツォ・モラニ(Vincenzo Morani: 1809–1870)、ヴィンチェンツォ・カムッチーニ(1771-1844)といった新古典派の画家たちと交流した。1819年から1822年までペルージャの美術アカデミーで校長を務め、1821年から1858年まではローマのアカデミア・ディ・サン・ルカの絵画の教授を務め、1837年には1年任期の会長も務めた。ミナルディが教えた学生には Gaetano Palmaroli (1800-1853)や Luigi Fontana (1827-1908)、 Paolo Mei (1831-1900)、 Ferdinando Cicconi (1831-1886)らがいる。学生の教育の他、ローマの芸術遺産の保護と修復にも貢献し、教皇政府の公式芸術家の地位を得た。
作品
編集-
自画像 (1803)
Galleria d'arte moderna (Firenze) -
ディオゲネス (1813)
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ロザリオの聖母 (1841)
Galleria d'arte moderna (Firenze)
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破壊されたエルサレム神殿 (1803/1810)
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エンリケ航海王子の夢 (1819/1820)
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素描
脚注
編集参考文献
編集- Guglielmo De Sanctis, Tommaso Minardi e il suo tempo, Forzani E.C., Tipografi del Senato, Rome, 1899.
- Ernesto Ovidi, Tommaso Minardi e la sua scuola, Rome 1902.
- Conte Giovanni Battista Rossi-Scotti, Il professor Tommaso Minardi e l'Accademia di belle arti di Perugia: ricordi storici con nota delle opere dell' illustre Professore. (1874), Tipografia de Vincenzo Bartelli, Perugia.