トレスト作戦
トレスト作戦(トレストさくせん、ロシア語: Операция "Трест")とは、ソビエト連邦の統合国家政治局(OGPU)が、反革命勢力をソ連国内に誘引し、逮捕する目的で実施した作戦。この作戦で、イギリスの有名なスパイ、シドニー・ライリーが逮捕された。当作戦は、ソ連国家保安機関の最も成功した作戦と考えられ、ソ連時代に映画化もされている。
中央ロシア王政派組織
編集1921年末〜1922年初め、OGPU機関により、反ソ地下組織、中央ロシア王政派組織(ロシア語: Монархическая организация центральной России、略称МОЦР)が無力化された。その関係者の証言から、同組織が国外の反革命派と結び付いていることが明らかになった。組織は壊滅したが、このことについて、一切報道されなかった。
国外の反革命派内部に浸透することを目的とした作戦のために、OGPU指導部により、既に存在しない組織を利用することが決定された。作戦のコードネームは、「トレスト」とされた。
計画・準備
編集フェリックス・ジェルジンスキーとヴャチェスラフ・メンジンスキーの指導下で実施される作戦の主役は、中央ロシア王政派組織指導者の役割を演じるA.ヤクシェフだった。元正国務参議官のヤクシェフは、1917年2月、帝政への忠誠に反すると考えて、臨時政府の大臣同志(次官)のポストを拒否していた。十月革命後、専門家として対外貿易人民委員部に招聘された。ヴェーチェーカーに徴募され、自発的に協力に同意し、彼に委任された全ての任務は、優れた業務知識を以って誠実に遂行されていた。彼自身、再三、生面の危険を冒した。
チェキストが立案した架空履歴、参加者の選抜、役割分担は、元皇族のニコライ・ニコラエヴィチ大公、王党派のアレクサンドル・クテポフ将軍、並びにボリス・サヴィンコフと、元ロシア国民、オデッサ出身のユダヤ人であるシドニー・ライリーに「トレスト」を信じ込ませるように熟考された。このため、イギリス大使ロッカートは、陰謀への参加の嫌疑により欠席裁判で死刑を言い渡された。
ライリーは、中央ロシア王政派組織の存在について知り、サヴィンコフ逮捕後の1925年4月、同組織の住所に手紙を送り、ソビエト指導者に対するテロ行為に移るよう勧告した。これにより、ライリーをソ連領内に誘引し、逮捕することを目的とした「トレスト」作戦の発動が決定された。
トレスト作戦
編集9月中旬、ライリーは、ヘルシンキに到着し、白軍のブナコフとクテポフの姪のマリヤ・ザハルチェンコ=シュリツと会見した。この場には、上記のヤクシェフも現れ、国境線の「穴」についてライリーに語った。ライリーは、中央ロシア王政派組織を点検するために、ソ連に入国することを決心した。9月25日、彼らはクオッカラ駅地区で国境を越えた。ライリーは、パルゴロヴォ駅で、ヤクシェフとチェキストのグリゴリー・スィロエシュキンが演じる中央ロシア王政派組織のメンバーが待つ列車に乗り換えた。
レニングラードにおいて、スィロエシキンは、ライリーを準備されたアパートに連れ出し、ピョートル・ヴラーンゲリ将軍の密使と称するムカロフと引き合わせた。モスクワでは、中央ロシア王政派組織の活動家に扮したOGPU職員と会見し、マラホフカのダーチャで行われた同組織の政治会議に出席した。ライリーは、組織の活動資金のため、美術館から芸術品を「徴発」し、イギリス諜報部と積極的に協力することを提案した。
会議後、全員モスクワに戻り、ライリーの要請により、チェキストの1人のアパートに立ち寄った。この時、ライリーは疑うことなく、アメリカ合衆国とドイツの友人に「ボリシェヴィキの巣窟から」と称する手紙を送っている。この場でライリーは逮捕され、1925年11月25日、1918年に言い渡されていた死刑が執行された。
トレスト作戦を題材にした作品
編集- Операция "Трест"、1967年、モスフィルム
関連項目
編集- ゲーペーウー
- シンジカート-2作戦 - ボリス・サヴィンコフをソ連に誘引、逮捕した作戦
- シドニー・ライリー - ジェームズ・ボンドのモデルともされるイギリスのスパイ