トルディ (戦車)
トルディ(ハンガリー語: Toldi)は、第二次世界大戦中、ハンガリーで使用された軽戦車である。スウェーデンのランツヴェルク L-60をもとに、ハンガリー初の国産戦車としてライセンス生産され、1940年から1944年までに各型合わせて約200輌が生産された。
トルディI | |
性能諸元 | |
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全長 | 4.75 m |
全幅 | 2.14 m |
全高 | 1.872 m |
重量 | 8.5 t |
懸架方式 | トーションバー |
速度 | 50 km/h |
行動距離 | 200 km |
主砲 | 36M 20 mm戦車砲×1 |
副武装 | 34/37A 8 mm機関銃×1 |
装甲 | 5~13mm |
エンジン |
BussingNAG Type L8V/36TR 155 馬力 |
乗員 | 3 名 |
“トルディ(Toldi)”は14世紀ハンガリーの民族的英雄の名である。
概要
編集ドイツ同様、第一次世界大戦の敗戦国として軍備を制限されていたハンガリーだが、1930年代後半に入ると軍備拡張を始め、イタリアからフィアット・アンサルド L3豆戦車143輌を輸入。これに続き、1937年にはドイツからI号戦車A型、スウェーデンからはランツヴェルク L-60軽戦車を入手、テストが行われた。
この結果、1938年にL-60軽戦車のライセンス生産権を取得、L-60原型に細かな改修を加え、「38Mトルディ I 軽戦車(38M Tordi I könnyű harckocsi)」として採用、マーヴァグ社(MÁVAG)、ガンズ社(GANZ)に対し生産を指示した。生産は1940年に始まり、翌年5月までにトルディI(80輌)、トルディII(110輌)が完成、ハンガリーはこのトルディを装甲部隊の中核として大戦に突入した。
1941年春のバルカン作戦を皮切りに、同年夏のバルバロッサ作戦にハンガリー「快速軍団」下の5個中隊がトルディを装備、南方軍の一翼としてソビエト連邦領内深くに侵攻したが、11月までに装備したトルディの8割が大破もしくは行動不能になるなど消耗は激しく、部隊は本国に引き揚げられた。
非力な20 mm砲と、最大でも13 mmの軽装甲では強力なソ連戦車には対抗できないことは明らかで、回収されたトルディの一部は40 mm砲に換装(トルディIIa)、また最初から40 mm砲搭載を前提とした新砲塔搭載のトルディIII(43Mトルディ)も開発された。しかしそれでも性能不足は否めず、その後のハンガリー装甲部隊の主力はトゥラーン中戦車や、ドイツからもたらされたLT-38、IV号戦車などが担うことになる。
バリエーションおよび派生型
編集- 38M トルディI(トルディA20)
- トルディの最初の生産型。80輌が生産された。原型であるL-60のマドセン20 mm機関砲と7.92 mm機銃は、ハンガリーでライセンス生産されていたゾロターン S-18/100(ハンガリー名称 36M)20 mm対戦車ライフルと国産のM34/37A 8 mm機関銃に替えられた。
- 38M トルディII(トルディB20)
- トルディIと同じ仕様だが、エンジンがハンガリー国内でライセンス生産されたものになるなど、各コンポーネントをすべて国産品にしたもの。サスペンションのトーションバーも若干強化されていると言われる。110両が生産された。
- 38M トルディIIa(トルディB40)
- 実戦参加により威力不足が明らかになったため、トルディI/IIの主砲を42M 51口径40 mm戦車砲に換装したもの。部隊から回収された既存のトルディI/IIを改修して1943年から44年にかけて80輌が作られた。
- 43M トルディIII(トルディC40)
- 当初から40 mm砲搭載を前提に改設計された砲塔を持つトルディの改良型。1941年に12輌が発注されたが、すでにこのクラスの軽戦車では性能不足が明白だったこと、生産現場ではトゥラーン中戦車の生産に注力していたことが重なり、結局、軍に引き渡された車輌はない[1]。
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クビンカ戦車博物館に展示されているトルディI
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トルディII
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トルディIIa
脚注
編集参考文献
編集- 戦車マガジン社『戦車マガジン』1990年6月号: 中嶋俊秀「第2次大戦のハンガリー戦車」
- Bonhardt Attila, Sarhidai Gyula, Winkler Lazalo "A MAGYAR KIRALYI HONVEDSEG FEGYVERZETE" ZRINYI KIADO(ハンガリー語)
- Csaba Becze, Magyar Steel, STRATUS, 2006
関連項目
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