トミー・バーン (野球)

アメリカ合衆国の野球選手 (1919-2007)

トミー・バーン英語: Tommy Byrne)として知られるトーマス・ジョゼフ・バーン英語: Thomas Joseph Byrne1919年12月31日 - 2007年12月20日)は、メジャーリーグベースボールの4球団(ニューヨーク・ヤンキースセントルイス・ブラウンズシカゴ・ホワイトソックスワシントン・セネタース)で出場したアメリカ合衆国プロ野球選手投手・左投左打)。第二次世界大戦では海軍少尉として従軍し、引退後にはウェイクフォレストの町長を務めた。

トミー・バーン(トーマス・ジョゼフ・バーン)
Tommy Byrne
1952年のベースボールカード
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア
生年月日 (1919-12-31) 1919年12月31日
没年月日 (2007-12-20) 2007年12月20日(87歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
初出場 1943年4月27日
最終出場 1957年9月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

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初期の経歴

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ボルチモア・シティ・カレッジ英語版(高校)とウェイクフォレスト大学に通った[1]

1943年のシーズン終了後の11月、海軍少尉としてアメリカ合衆国海軍に入り、ノーフォークの訓練施設に送られた[1]。1944年には第二次世界大戦中は地中海で活動した駆逐艦オードノー英語版の砲術士官として配属された[1]。この時期にも海軍チームでプレーした記録が残されている[1]

野球選手としての経歴

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1940年ニューヨーク・ヤンキースと契約、インターナショナルリーグ(当時トリプルAが存在しないためダブルA)のニューアーク・ベアーズで1942年まで出場した[2]。1942年には17勝4敗、防御率3.10、打率.328と投打に活躍した[2]。1943年にはロースター入りし、4月27日ボストン・レッドソックス戦の8回にリリーフとして登板しメジャーリーグ初出場[3]

第二次世界大戦後の1946年に復帰、一塁手への転向構想もあったとされるこの年には主に代打代走としての出場となった[1][4]

MLBの最終出場は1957年9月21日であるが、その年のワールドシリーズに出場して2試合に登板し、第7戦の9回裏にはそのまま打席に立ち内野安打を放っている。

現役引退後

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引退後はウェイクフォレスト大学(大学はウィンストン・セーラムに移転していた)の所在地であったウェイクフォレストに戻った。1963年の開幕前にニューヨーク・メッツのマイナーリーグ担当スカウトとして復帰。クライド・マカルー英語版がメッツのコーチに転じた後任として、カロライナ・リーグローリー・メッツ英語版の監督に就任し、7月29日からシーズン終了まで指揮を執った[5]

1973年から1987年にかけて、ウェイクフォレストの町長を務めた[6]

2007年12月20日、87歳でウェイクフォレストにて死去した[7]

プレースタイル

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バーンはためらいなく内角に強く投げ込む投球スタイルであったが、選手生活の大半でコントロールに苦しみ、「ワイルド・マン」とあだ名されるほどであった[8]。1943年4月27日のデビュー後、130回以上を投げた4年間で、9回換算で6四球に相当する四球率を記録し、後にノーラン・ライアンがこの記録に並んだ。通算で最多死球5回、最多四球3回を数えた。これほどの制球難であったが、15勝を2回(1949年、1950年)、最も好成績であると考えられる1955年には16勝5敗、防御率3.15、勝率.762を記録しこれはリーグ最高勝率であった。

打者としても強打者であり、代打としても起用された。通算で打率.238(601打数143安打)、満塁2本を含む14本塁打、98打点を377試合で記録している。1946年(代打6試合、投手3試合、代打からの登板1試合)[9][10]、1953年(代打20試合、投手11試合、代打からの登板1試合)は[11][12]、投手としての出場数を打者としての出場数が上回っている。

13年間で投球回数1362回、85勝69敗、防御率4.11を記録した。K/BBは0.74(766三振、1037四球)と悪い成績であった。ワールドシリーズには4回出場し、1勝1敗、11三振、防御率2.53、投球回数21.1回。1950年には出場は無かったもののMLBオールスターゲームアメリカン・リーグから選出されている。

また1955年の日米野球と翌1956年のメジャーリーグ開幕前のオープン戦で、特殊な投法の「背面投げ」(通称"Kimono Ball")を披露したことでも知られる[13][14]

出典

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  1. ^ a b c d e Tommy Byrne”. アメリカ野球学会. 2024年1月15日閲覧。
  2. ^ a b Tommy Byrne Minor League Ststics”. Baseball-Reference. 2024年1月15日閲覧。
  3. ^ Tommy Byrne 1943 Pitching Game Logs”. Baseball-Reference. 2024年1月15日閲覧。
  4. ^ Tommy Byrne”. Baseball-Reference. 2024年1月15日閲覧。
  5. ^ The Sporting News, August 10, 1963, page 41. "Tommy Byrne Takes Raleigh Reins in Managerial Debut."
  6. ^ http://www.nbc17.com/midatlantic/ncn/news.apx.-content-articles-NCN-2007-09-09-0018.html
  7. ^ Richard Goldstein (2007年12月23日). “Tommy Byrne, 87, a Former Yankee Pitcher, Dies”. ニューヨーク・タイムズ. 2007年12月23日閲覧。
  8. ^ Hoch, Bryan. “Former Yankee Byrne dies at 87”. MLB.com. 2007年12月22日閲覧。
  9. ^ Tommy Byrne 1946 Pitching Game Logs”. Baseball-Reference. 2024年1月15日閲覧。
  10. ^ Tommy Byrne 1946 Batting Game Logs”. Baseball-Reference. 2024年1月15日閲覧。
  11. ^ Tommy Byrne 1953 Pitching Game Logs”. Baseball-Reference. 2024年1月15日閲覧。
  12. ^ Tommy Byrne 1953 Batting Game Logs”. Baseball-Reference. 2024年1月15日閲覧。
  13. ^ Peter Morris (2010-4-16). A Game of Inches: The Stories Behind the Innovations That Shaped Baseball. p. 125. ISBN 978-1-56663-853-1  (Google Booksプレビュー、2024年1月13日閲覧)
  14. ^ 蛭間豊章 (2020年6月15日). “【1969年6月15日】天敵・王貞治封じに登場した衝撃の“背面投げ”…元祖は1955年の日米野球で披露したヤンキース左腕”. 2020年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月13日閲覧。

外部リンク

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