トマス・ステュアート (司祭)
トマス・ステュアート(Thomas Stewart)は、スコットランド王ロバート2世の庶子。セント・アンドルーズ司教(在任:1401年 - 1402年)に選出されたが、実質的な就任ができないまま退任した。
トマス・ステュアート | |
---|---|
教区 | セント・アンドルーズ |
着座 | 1401年7月1日 |
離任 | 1402年 |
前任 | ウォルター・トレイル |
後任 | ウォルター・ド・ダニエルストン |
個人情報 | |
出生 | 14世紀 |
死去 | 15世紀 |
教派・教会名 | カトリック教会 |
両親 | スコットランド王ロバート2世 |
出身校 | パリ大学 |
経歴
編集1380年、アヴィニョンの対立教皇クレメンス7世は、グラスゴー司教区 (Bishopric of Glasgow) ストーボ(Stobo)の律修司祭の地位と聖職禄に加え、セント・アンドルーズ司教区の大執事職を、トマスに与えた。1389年、ロバート2世王はトマスのために、他の諸々の役職とともにダンケルド司教区 (Bishopric of Dunkeld) の首席司祭 (dean) の地位を占める権利を与えることを教皇に要請して、これを認められ、1389年には、教皇によってトマスにブリーヒン司教区 (Bishopric of Brechin) の律修司祭の座が与えられた。この頃、大執事であったトマスは、パリ大学から教会法の学士号を取得した。
1401年7月1日、セント・アンドルーズ司教ウォルター・トレイルが没したのを受けて、トマスは後任に選出され、司教管区の空席を埋めることになった。しかし、対立教皇ベネディクトゥス13世がフランス王シャルル6世の軍勢に包囲されていたため、トマスは教皇からの承認を得られないままでいた。こうした状況下で、トマスの選出は、当時の政治的闘争の犠牲となってしまった。トマスは、甥のロスシー公爵デイヴィッド・ステュアートの支持を受けており、1401年を通じて、ロスシー公爵の軍勢はセント・アンドルーズ地方で活発な動きを見せていた。しかしこの結びつきは、トマスの異母兄弟であるオルバニー公爵ロバート・ステュアートとの対立を招いた。ダンバートン城を支配下に収めるため、オルバニー公爵は城を守っていたウォルター・ド・ダニエルストンに、セント・アンドルーズの半ば空席になっていた司教管区を委ねた。1402年、司教に選出されたままだったトマスはオルバニー公爵とアバネシーで会見し、トマスは司教への就任権を放棄し、新たに選出をやり直すことに同意した。
参考文献
編集- Boardman, Stephen, The Early Stewart Kings: Robert II and Robert III, 1371-1406, (East Linton, 1996)
- Dowden, John, The Bishops of Scotland, ed. J. Maitland Thomson, (Glasgow, 1912)
宗教の称号 | ||
---|---|---|
先代 ウォルター・トレイル |
セント・アンドルーズ司教 Bishop of St. Andrews (Cill Rìmhinn) 1401年 - 1402年 選出のみ |
次代 ウォルター・ド・ダニエルストン ギルバート・グリーンロー (以上2名は聖別されなかった) ヘンリー・ウォードロー (聖別された) |