サー・トマス・グレーブス1747年頃 - 1814年3月29日)は、イギリス海軍の士官である。七年戦争アメリカ独立戦争フランス革命戦争ナポレオン戦争に参戦した後に提督に昇進した。

サー・トマス・グレーブス
Sir Thomas Graves
海軍少将の正装姿のトマス・グレーブス ジェームズ・ノースコート
生誕 1747年頃
死没 1814年3月29日
デヴォン、ホニトン
所属組織 イギリス海軍
軍歴

?-1814年

最終階級 提督
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家族と海軍入隊

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トマス・グレーブスは1747年頃、ロンドンデリーのキャッスル・ドーソンの牧師のジョン・グレーブスと、妻のジェーン・ハドソンの三男として生まれた。サミュエル・グレーブス英語版提督をおじに持ち、また初代グレーブス男爵トマス・グレーブス英語版のいとこの子供でもあった。トマスの兄弟3人はすべてイギリス海軍の艦長を勤めており、海軍の古い名簿によれば、すべて提督になっている。トマスは幼くして海軍に入り、七年戦争中はおじのサミュエルと共にスコーピオン英語版デューク英語版、そしてビーナス英語版艦上で任務についた。七年戦争終結後は、父のいとこである後のトマス・グレーブス男爵アンテロープ英語版に乗り、その後男爵[注釈 1]エドガーに乗艦した後にグレーブスも乗艦し、1765年アフリカ沖で、男爵からシャノン英語版海尉に任じられた。フォスターの『ピアリッジ』(Peerage)によれば、グレーブスは1752年生まれとなっているが、これは一般に知られたグレーブスの軍歴とは矛盾している。海軍の規則によると、彼は海尉昇進までに20歳になっていなければならず、軍規にかなり違反していたとしても、彼がわずか13歳であったというのはかなり可能性が低い。1765年には、若くても18歳にはなっていたと推測するのが妥当であろう[1]

北極海の航海とアメリカ独立戦争

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1770年、グレーブスはアレトゥーサ英語版の海尉となり、1773年にはコンスタンティン・フィップス英語版と共にレースホース英語版の指揮を任されて、北極海で新しい発見をするための航海に向かった。その翌年には北アメリカにおじのサミュエルと赴き、ダイアナ英語版の指揮を任された。この艦は密輸防止のための小型スクーナー艦の1隻で、乗員は30人、4台の2ポンド砲を搭載していた。1775年5月27日ボストンからこの艦がチャールズ川に派遣された時、大規模の反乱軍に攻撃された。到着するまでにこの反乱軍の規模はかれこれ2000人程度にまで膨れ上がり、しかも彼らは2台の野戦砲を持っていた。この事態が収まって、真夜中が近づいた頃に引き潮となり、ダイアナが座礁して横向きにひっくり返ったため、大陸軍はダイアナの砲撃に成功した。乗員はわずかな人数でよくしのいだが、艦を廃棄せざるを得なくなった。グレーブスはこの時、兄弟のジョン共々生まれて初めてひどいやけどを負い、このため旗艦のプレストン英語版の海尉がボートに乗って、ダイアナの乗員の救援に向かった[1][2]

勅任艦長昇進と西インド諸島での海戦

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セインツの海戦

この後グレーブスは、ボストンとロードアイランドの近郊で他の補給船の指揮を執り続け、おじのサミュエルが召喚されたため、再びプレストンに乗ってイギリスへ戻った。しかし再び、ウィリアム・ホサム英語版が指揮を執るプレストンで北アメリカの駐留地へ送られた。1779年、グレーブスは西インド諸島及び北アメリカ駐留地のスループサヴェージの指揮を執り、1781年5月には勅任艦長英語版となった。その時期はエドマンド・アフレック英語版准将が不在であったため、9月5日チェサピーク湾の海戦ベッドフォードの指揮を執り、その後も引き続きアフレック准将の旗艦艦長としてベッドフォードの指揮官を務め、1782年1月26日セイントキッツの海戦英語版と、4月9日と12日のセインツの海戦では功績をあげた。このセインツの戦いが、ベッドフォード指揮官として最後の戦闘となった[1]

その年の秋、グレーブスはフリゲート艦マジシエン英語版(マジシエンヌ)の指揮官となった。この艦で、1783年1月2日にはフランスのフリゲート艦シビル英語版と激しい交戦を行い、この時はシビルの乗員相手に苦戦した。この乗員はチェサピーク湾へ輸送される兵員だった。2隻は難破するまで戦ったのち別れた。マジシエンは2週間後にジャマイカに到着し、シビルは1783年2月22日トマス・マクナマラ・ラッセル英語版の指揮下の護衛艦[注釈 2]ハッサーに拿捕された[1]

フランス革命戦争とナポレオン戦争

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アメリカ独立戦争後、グレーブスはフランスで主に過ごした。フランス革命戦争の初期には召集されなかったが、1800年10月になって、ジョン・ジャーヴィス指揮下にある海峡艦隊の74門艦カンバーランドに配属された、この任務は数か月間程度のものだった。1801年1月1日白色少将となり、3月には64門艦パリフィーマスに旗をなびかせた、この艦はハイド・パーカーの下バルト海に向かう艦隊の1隻だった[1]

提督への昇進と晩年

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1801年のコペンハーゲンの海戦

グレーブスはその後デフィアンスに移り、1801年4月2日コペンハーゲンの海戦で、ホレーショ・ネルソンの副指揮官となった[注釈 3]。この大事な海戦での働きで、議会から感謝の議決を受け、バス勲章を授与された。7月の終わりにかけて艦隊はバルト海を離れたが、この作戦中の大部分に健康を害していたグレーブスは、イギリスに戻って第一線から退いたが、1804年10月から1805年2月にかけて、ビスケー湾を航海したフードロイヤント英語版艦長のクリストファー・ネシャム英語版は、グレーブスの提督旗を自艦に掲げていた。グレーブスは1805年9月には中将となり、1812年8月2日大将に昇進した[1]

グレーブスは2度結婚したが、子供は娘が1人だけだった。1814年3月29日、ホニトン近くのウッドバインヒルの自宅で死去した。

注釈

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  1. ^ 実際には男爵の叙爵はそのかなり後だが、両者が同姓同名で紛らわしいため、区別のためこの称号を使っている。
  2. ^ 英語版ではProtectorとある。
  3. ^ 最高指揮官がパーカーなので、次席指揮官ネルソン、三席指揮官グレーブスとなる[3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f Laughton
  2. ^ BEATSON, Nav. and Mil. Mem. iv. 72
  3. ^ 小林幸雄著 『図説 イングランド海軍の歴史』 原書房、2007年、426頁。

参考文献

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  この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Laughton, John Knox (1890). "Graves, Thomas (1747?-1814)". In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 22. London: Smith, Elder & Co. pp. 440–441.