トマスによる福音書』(トマスによるふくいんしょ)は、1945年エジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集である。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるため、この名で呼ばれる。新約聖書には含まれない外典である。

オクシュリュンコス・パピルス655 (P. Oxy. 655)。ギリシア語版トマス福音書と考えられるものの一部。

トマス福音書の位置づけ

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新約聖書学上の主な意義は以下の通りである。

写本

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写本コプト文字を用いたコプト語で書かれており、写本末尾にコプト語で“Ⲡ.Ⲉⲩⲁⲅⲅⲉⲗⲓⲟⲛ ⲡ.ⲕⲁⲧⲁ Ⲑⲱⲙⲁⲥ”(P.Euaggelion p.kata Thomas)、つまり『トマスによる福音書』と題名がある[1]4世紀後半のパピルスの写本である。ギリシア語から翻訳されたと考えられ、3世紀に書かれた『オクシュリュンコス・パピルス』のイエス語録は、このコプト語の『トマス福音書』と内容が極めて近く、ギリシア語版のトマス福音書であると考えられる[1]。ただし、オクシュリュンコス・パピルスのトマス福音書が、ナグ・ハマディ写本のコプト語版福音書の直接の原典というわけではない。

いずれにせよ、両語版とも、文体にセム語法(特にシリア語法)が見られるので、おそらくは元はシリア語で書かれたと想定され、元となったシリア語のトマス福音書は、2世紀後半に東シリア(例えばエデッサの町)で成立したと考えられる[2]

1950年代初頭、ナグ・ハマディ写本群に『トマス福音書』が含まれていることが報じられ、新発見の福音書の存在が世間を湧かせた。しかし、ナグ・ハマディ文書は、長い間、一部の者しか手にすることができず、写真版が出版され、世界の学者が入手できるようになったのは、1972年以降である。

なお、以下では、原則としてコプト語版に基づいて説明する。

著者――使徒トマス

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本福音書の本文には十二使徒の一人とされる使徒トマスにより書き記されたとの記述がある。トマスは現行の新約聖書ではあまり目立たず時として低く評価される人物である[3]

しかし、学問的には新約聖書に収録された他の福音書と同様に、実際に使徒トマスによって書かれたものとは考えられない。

「トマス」は、アラム語で「双子」を意味する言葉「テオマー、トーマー」(ܬܐܘܡܐ, Te'omā, Tōmā)に由来し、ギリシア語では、音訳して「トーマース」(Θωμᾶς)とするか、意訳して「ディデュモス」(Δίδυμος)とする。彼は、「ユーダース・トーマース」(Ἰούδᾱς Θωμᾶς)、または「ユーダース・ディデュモス」(Ἰούδᾱς Δίδυμος)とも称され、本名は「ユダ」で、恐らく「イスカリオテのユダ」らと区別するために[4]、「双子」を意味する呼び名が付けられていると思われる[5]

本福音書の序では、ギリシア語の音訳語と意訳語を並列して「ディデュモ(ス)・ユダ(ス)・トマス」(コプト語: Ⲇⲓⲇⲩⲙⲟⲥ Ϊⲟⲩⲇⲁⲥ Ⲑⲱⲙⲁⲥ, Didumos Ïoudas Thomas)と書かれている[6]

そもそも、使徒トマスがなぜ「双子」という呼び名を持つのか、また誰と双子であったのかは不明であるが、本福音書では、イエスと「双子」であったと示唆され、高く評価されている[7]。ただし、グノーシス主義的な立場から述べた象徴的な意味での双子であって、必ずしも血縁の兄弟を意味するものではない[8]

イエスの語録集

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正典に認められている4つの福音書が、イエスの言葉を収録するだけでなく、その行動(業)や物語をも記述する複合的な構成を持つのに対し、本福音書はイエスの言葉だけからなる「語録集」である。冒頭の編集句を除いて、言葉が発せられた状況の描写や解説は一切ない。但し、語録そのものには編者による改変が見られる。

冒頭の編集句にも以下のように述べられ、読者自らにイエスの言葉を「解釈」するよう求めており、自身の解釈によって本来の自己を「認識・覚知」(グノーシス)するための道が示されている。

 これは、生けるイエスが語った、隠された言葉である。そして、これをディディモ・ユダ・トマスが書き記した。
1 そして、彼が言った、「この言葉の解釈を見出す者は死を味わうことがないであろう」 — 荒井献訳。以下同

アグラファ

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現行の新約聖書の福音書には収録されていないが、その他の初期キリスト教文献で言及されているイエスの言葉が幾つかあり、これを「アグラファ」(ἀγράφα. 「書かれざるもの」の意)と呼び、新約聖書学上、大きな意味を持つ。このアグラファが本福音書には42収録されている。

  • アグラファの例:
7 イエスが言った、「人間に食われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に食われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」

77 イエスが言った、「1 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
2 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」

105 イエスが言った、「父と母を知るであろう者は、娼婦の子と呼ばれるであろう」

108 イエスが言った、「私の口から飲む者は私のようになるであろう。そして、私もまたその者になるであろう。そして、隠されていたものがその者に現われるであろう」

114 シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである。」イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るだろうから」

Q資料

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また、新約聖書学では、「共観福音書」において、マタイによる福音書ルカによる福音書は、マルコによる福音書を参照した以外に、もう一つ別のイエスの語録(または言葉伝承)を元資料としたことが、ほぼ定説になっている。この元資料を「Q資料」と言うが、Qにおいて想定される文学様式(イエス語録からなる福音書)が古代に実際に存在したことが、トマス福音書の発見によって実証されたことになる。

ただし、トマス福音書が、ただちにQ資料であるということではない。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ オクシュリュンコス・パピルスのNo.1, 654, 655。なお、題名のギリシア語名は "Τὸ Εὐαγγέλιον τὸ κατὰ Θωμᾶν"、または "Τὸ κατὰ Θωμᾶν Εὐαγγέλιον" と還元できよう。
  2. ^ 荒井献(1994年)pp.28-30.
  3. ^ ヨハネ福音書 20:24-29
  4. ^ 聖書の中では複数の「ユダ」が登場する。ユダとは「賛美」の意味であり、かなり一般的な名前であった。新約聖書の中で登場するユダは、イエスの周辺だけでも四人いる。区別のためにそれぞれ呼び名が付けていたようである。イエスを裏切る「イスカリオテのユダ(意味はカリオテ村出身のユダ)」の他に、「イエスの弟のユダ」、「十二弟子の一人トマス(意味は双子)」、「十二弟子の一人タダイ(意味は筋骨逞しい)」がいる。
  5. ^ ヨハネ福音書 21:2には、 "Θωμᾶς ὁ λεγόμενος Δίδυμος"、つまり「ディデュモスと呼ばれるトマス」とあり、これでは「双子と呼ばれる双子」という意味になってしまう。伝承上、少なくとも、トマスが、本名ではなく、「双子」という呼び名・あだ名であったとは言えよう。
  6. ^ ギリシア語にすると、"Ἰούδᾱς Δίδυμος Θωμᾶς" となるが、オクシュリュンコス・パピルスでは、"Ἰούδᾱς ὁ καὶ Θωμᾶς" 、つまり「トマスでもあるユダ(ス)」とある。なお、日本語では、「ユダ」、「ヨハネ」などのように、ギリシア語の格語尾を表記しない方が普通であるので、「ユダ(ス)」のように括弧に入れた。ただし、「トマス」は普通「トマ」とは言わない。
  7. ^ トマス行伝
  8. ^ グノーシスにおける「双子」の意味は、かなりその幅が広い。例えばグノーシスの流れをくむとされるマニ教では、教祖マニに啓示を与えた天使が「双子」と呼ばれている。この双子はさらに、他の言語に翻訳された時には「配偶者」「仲介者」「聖霊」などとも訳されている。『トマスによる福音書』は、マニ教徒の中で広く読まれていたので、その意味合いは、マニ教をベースにとらえる必要がある。

参考文献

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  • 荒井献 『トマスによる福音書』 講談社〈講談社学術文庫〉1149、1994年、ISBN 4061591495
  • エレーヌ・ペイゲルス Elaine Pagels 『禁じられた福音書――ナグ・ハマディ文書の解明』  松田和也訳、青土社、2005年、ISBN 4791761707

関連項目

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外部リンク

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