鄧 忠(とう ちゅう、? - 景元5年(264年)正月[1])は、中国三国時代の武将。本貫荊州義陽郡棘陽県(現在の河南省南陽市新野県)。『三国志』魏書に伝のある鄧艾の子。

生涯

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甘露元年(256年)、父の鄧艾が段谷の戦いでの功績を賞され、その領邑から500戸を分けて、鄧忠は亭侯[2]に封じられる。

景元4年(263年)、鄧艾の配下で蜀漢討伐に従軍。綿竹にて師纂と共に諸葛瞻と交戦するが、緒戦は敗北を喫し、鄧艾から斬刑に処されそうになる。鄧忠と師纂は馳せ戻って再び戦を交え、今度は諸葛瞻らの首を斬る大勝を収めた。同年11月[1]、蜀漢の皇帝劉禅は降伏し、鄧艾軍は蜀制圧という大功を立てた。

この後、鄧艾は「このままも征討すべき」と強硬に主張したが、鍾会らにそれを反乱の企てと告発され、景元5年(264年)正月[1]、鄧艾・鄧忠父子は逮捕される。その身柄は都に送還されるところだったが、反乱を企てた鍾会も殺害される混乱の中、鄧艾は彼に恨みを抱く田続によって殺害され、鄧忠もまた父と共に死に至る。

西晋の時代には鄧艾の名誉は回復され、嫡孫の鄧朗が登用されている。ただし彼の父が鄧忠とは明言されていない。

羅貫中の小説『三国志演義』では白面の美丈夫で、鄧艾に劣らぬ武略の持ち主として登場する。若くから鄧艾に従い、蜀漢との戦いで大いに活躍する姿が描かれている。

出典

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脚注

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  1. ^ a b c 『三国志』魏書 陳留王紀 s:zh:三國志/卷04#陳留王
  2. ^ 『三国志』鄧艾伝にてこの後、「恵唐亭侯の鄧忠」とも記述される。