デープリング

ウィーンの行政区

デープリングドイツ語: 19. Bezirk, Döbling, Doebling [ˈdøːblɪŋ] ( 音声ファイル))はウィーンの行政区の第19区である。ウィーン中心部の北部に位置しており、アルザーグルント(第9区)、ヴェーリング(第18区)の北側の地区である。ウィーンの森との境界にもなっている。ウィーン郊外の住宅地区として多くの住宅地が広がっており、グリンツィング、ジーフェリング、ノイシュティフト・アム・ヴァルデ、カースグラデンなど高級住宅地がある。多くのホイリゲなども立地している。ウィーンではもっとも有名な公共住宅であるゲマインデバウ (Gemeindebau) の一つであるカール・マルクス・ホーフや、アメリカンスクールも区内に位置している。

ウィーン19区
紋章 位置
区名 デープリング
面積 24.90 km²
人口 73,861人(2021年1月1日)
人口密度 2,966人/km²
郵便番号 1190
区役所所在地 Martinstraße 100
1180 Wien
公式サイト www.wien.gv.at/bezirke/doebling/
政治
区長 ダニエル・レシュ
(Daniel Resch) (ÖVP)
第1副区長 ローベルト・ヴツル
(Robert Wutzl) (ÖVP)
第2副区長 トーマス・マーダー
(Thomas Mader) (SPÖ)
区議会勢力
(定数48)
ÖVP 19, SPÖ 14, Grüne 8, NEOS 5,
FPÖ 2
構成地域
デープリングの構成地域

地理

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位置

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デープリングはウィーンの北西部にあり、ウィーンの森からドナウ川ドナウ運河にかけての傾斜地でドナウ運河は東側の区との境界となっている。ドナウ川はデープリングとフローリツドルフ(第21区)との境界となっており、ドナウ運河はブリギッテナウ(第20区)との境界となっている。ギュルテル橋 (Gürtel) はドナウ運河に架かっており、デープリングの地区を分けている。南側を通る道路ウィーンベルトはアルザーグルントとの境界となっている。

地勢

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デープリングの32.6%は市街地となっていて、そのうち85.2%は住宅地になっている。緑地は51.8%(ウィーン全体では48.3%)を占めており、ウィーンの行政区内で5番目に緑の多い区となっている。そのうち14.9%は農地に使われており、主に葡萄園に使われておりワインで有名な地となっている。緑地のうち25.4%は森林で、5.3%は牧草地、2.7%は小規模な庭園、2.5%は公園、0.9%はスポーツ施設、レクリエーション施設などに使われている。残りの11.0%は道路などの交通用地、4.6%は水域となっている。

丘陵地

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レオポルドベルクの丘

デープリングはウィーンの森の多くの丘が横切っている。多くはニーダーエスターライヒ州と近隣の地区との境界を横切っている。一番高いものは、ヘルマンスコーゲル (Hermannskogel) で標高542 mであるが、デープリングのシンボルとなるのは484 mのカーレンベルク (Kahlenberg) と、その近くにある427 mのレオポルドベルクである。他の地区にもそれぞれ丘が横切っており、丘上からはウィーンの市街地を望むことができる。

水路

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ヌスドルフの水路

デープリングには多くの川が流れているが、現在ではその多くは人工的なものか水路の流れに導かれている。森林の川 (Waldbach) を除いてそれらはドナウ運河に流れ込む。ウィーンの森の砂岩地帯での集水地のため、通常の水の量の倍以上を集めることができる。多くの水を集まるため、特にクロッテンバッハ沿いでは何度も洪水が起こっている。クロッテンバッハはデープリングにとっては重要な流れなため、完全な水路が敷かれている。

地区

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デープリングは11地区に分かれている。

歴史

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デープリングに人が住み始めたのは5,000年以上前とされている。デープリング、ヌスドルフ、ハイリゲンシュタットにかけての一帯に続いて、ジンメリンク・ラント通りでおそらく今日ではこれらの一帯はウィーンでも最も古くから人が住んでいる地域と考えられている。レオポルドベルクの丘は武器の村で防御のための塔があり、住民は周囲の村々から危険を負っていた。科学的にドナウ=ランド文化について言及されており、この地域の住民はもともと、インド・ヨーロッパ語族ではなかった。1,000年ほど後までウィーン地域に移住してきたイリリア人ケルト人が混在し住んでいた。

ローマ帝国と現在のデープリングの関係はいくつかの発見に関連が見られる。ハイリゲンシュタットではリーメスの防御のための塔が見つかっており、ジーフェリングではローマ時代のミスラ寺院が発見されており、ハイリゲンシュタットで発見された教会共にローマ時代の墓地と関係している。ローマ時代、ジーフェリングには大きな石切り場があり多数の労働者が居住していた。さらに住民の生活の糧を得る手段として葡萄園も開かれ、葡萄園はローマがやって来る以前より行われていたと考えられている。

デープリングは戦略上の地点として占拠や略奪に見舞われた。1683年に起きた第二次ウィーン包囲はその後のこの地域に与えた影響は大きい。

デープリングは丘が多い地形と森で覆われた地域で貴族のための猟場にも使われており、小川や村の間に残り多くの地域に広がっていた。デープリングの地勢は多くのワイン生産者も惹きつけている。貴族たちが作った村や狩猟小屋、ウィーンの上流市民がくつろぐホイリゲのワインガーデンなどで繁栄していった。開発された村は人口の増加に伴って大きくなり、1892年にウィーンと統合され行政区としてのデープリングが設立された。

デープリングはその後も中産・上流階級の地域として開発が進んでいった。第一次世界大戦時と第二次世界大戦時に社会主義のウィーン市政府は多くの地区に公共住宅を計画している。カール・マルクス・ホーフはその中でも一番規模の大きなものであった。デープリングの郊外はユダヤ人の人口比率が高い地区もある。水晶の夜の時には多くの破壊が行われた。

語源

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デープリングが最初に文書に記されたのは1114年の "de Teopilic" であった。デープリングの地名はスラヴ語の topl'ika からで「沼沢の多い地」や「じめじめした場所」という意味である。デープリングはクロッテンバッハと関係しており、古代スラヴ語の Toplica(暖かい流れの意)が転じて Toblich や Töbling, Tepling などの地名に使われている可能性がある。1890年代の行政区の制定では最終的に "Döbling" の名が付けられた。

ゆかりの人物

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姉妹都市

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外部リンク

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