デイヴィッド・オグルヴィ (第6代エアリー伯爵)
第6代エアリー伯爵デイヴィッド・スタンリー・ウィリアム・オグルヴィ(英語: David Stanley William Ogilvy, 6th Earl of Airlie、1856年1月20日 – 1900年6月11日)は、イギリスの軍人、スコットランド貴族。
生涯
編集第5代エアリー伯爵デイヴィッド・グラハム・ドラモンド・オグルヴィと妻ヘンリエッタ・ブランシュ(Henrietta Blanche、旧姓スタンリー(Stanley)、1830年7月3日 – 1920年1月5日、第2代アルダリーのスタンリー男爵エドワード・スタンリーと妻ヘンリエッタ・マリアの娘)の息子として、1856年1月20日にフィレンツェで生まれた[1][2]。
1874年6月13日に少尉としてイギリス陸軍に入隊[3]、第1歩兵連隊に配属された後、1875年8月28日にスコッツフュジリアーガーズに転じ[4]、1876年5月3日に第10ハザール連隊に転じ[5]、1876年5月3日に(1875年6月13日付で)中尉に昇進した[6]。1878年から1879年まで第二次アフガン戦争に参戦した[1]。
1881年9月25日に父が死去すると、エアリー伯爵位を継承した[1]。1885年5月11日、エアシャーの副統監に任命された[7]。同年の総選挙でスコットランド貴族代表議員に当選[8]
1883年4月21日に第6竜騎兵連隊の連隊副官に任命された[9]。1884年2月18日に大尉に昇進した後[10]、同年のスーダン遠征に参戦、さらに1884年から1885年までのナイル遠征にも参戦したため[1]、1885年初に連隊副官を辞任した[11]。ナイル遠征では1885年1月17日のアブクレアの戦いで軽傷を負い[12]、1月19日のアブクルの戦いでも軽傷を負った[13]。6月15日、少佐への名誉昇進辞令を与えられた[14]。同日付の殊勲者公式報告書にも記載された[15]。
第10ハザール連隊では定員外の大尉を経て、1886年9月20日に大尉に正式に昇進した[16]。1889年7月21日にハンプシャー・ヨーマンリー連隊の連隊副官に任命され[17]、1893年6月5日に辞任した[18]。1892年8月3日、少佐に正式に昇進した[19]。1895年11月27日、ブラックウォッチ第3志願兵大隊の名誉隊長に任命された[20]。その後、第2竜騎衛兵隊への配属を経て、1897年12月8日に第12ランサーズ連隊の副隊長(中佐)に昇進した[21]。
第二次ボーア戦争の勃発とともに南アフリカに派遣され[1]、1900年2月15日付と1900年3月31日付のの殊勲者公式報告書に記載された[22][23]。ブランドフォートで負傷した後、1900年6月11日にダイヤモンド・ヒルの戦いで戦死した[1]。6歳の長男デイヴィッド・ライルフ・ゴア・ウールズリーが爵位を継承した[1]。
死後の1901年、第6代エアリー伯爵の記念碑がアンガスのタロック山(Tulloch Hill)上に建てられ、エアリー・モニュメント(Airlie Monument)と名付けられた[24]。
家族
編集1886年1月19日、メイベル・フランシス・エリザベス・ゴア(1866年3月10日 – 1956年4月7日、第5代アラン伯爵アーサー・ゴアの娘)と結婚、3男3女をもうけた[1][25]。
- キティ・イーディス・ブランシュ(1887年2月5日 – 1969年10月17日) - 1906年9月18日、サー・バークリー・ヴィンセント(1963年1月29日没、アーサー・ヘア・ヴィンセントの息子)と結婚、子供をもうけたが、1925年に離婚した。1926年6月1日、ラルフ・ジェラルド・リットソン(Ralph Gerald Ritson、1966年10月25日没、ウルリク・アレクサンダー・リットソンの四男)と再婚[25]
- ヘレン・アリス・ウィリントン(Helen Alice Wylington、1890年11月21日 – 1973年12月) - 1909年11月25日、クレメント・ベトラム・オグルヴィ・フリーマン=ミットフォード閣下(Hon. Clement Betram Ogilvy Freeman-Mitford、1915年5月没、初代リーズデイル男爵アルジャーノン・フリーマン=ミットフォードの長男)と結婚、子供あり。1918年7月11日にヘンリー・コートネイ・ブロックルハースト(Henry Courtney Brocklehurst、1942年没、初代準男爵サー・フィリップ・ランカスター・ブロックルハーストの次男)と再婚、子供をもうけたが、1931年に離婚した。1933年2月21日、ハロルド・ブライ・ナッティング(Harold Bligh Nutting、1954年7月7日没、フィリップ・ナッティングの息子)と再婚[25]
- メイベル・グリゼルダ・エスター・サドリー(Mabell Griselda Esther Sudley、1892年1月22日 – 1918年11月4日) - 生涯未婚[25]
- デイヴィッド・ライルフ・ゴア・ウールズリー(1893年7月18日 – 1968年12月28日) - 第7代エアリー伯爵[1][2]
- ブルース・アーサー・アシュリー(1895年3月15日 – 1976年9月29日) - 1931年4月28日、プリムローズ・イリナ・オブライエン(Primrose Eleanor O'Brien、1961年12月9日没、ロバート・ウィリアム・オブライエンの長女)と結婚、子供なし[25]
- パトリック・ジュリアン・ハリー・スタンリー(1896年6月26日 – 1917年10月9日) - 第一次世界大戦で戦死[25]
出典
編集- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 75.
- ^ a b Cokayne, George Edward; Hammond, Peter W., eds. (1998). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Addenda & Corrigenda). Vol. 14 (2nd ed.). Stroud: Sutton Publishing. p. 14.
- ^ "No. 24104". The London Gazette (英語). 12 June 1874. p. 2996.
- ^ "No. 24240". The London Gazette (英語). 27 August 1875. p. 4281.
- ^ "No. 24320". The London Gazette (英語). 2 May 1876. p. 2735.
- ^ "No. 24477". The London Gazette (英語). 29 June 1877. p. 3901.
- ^ "No. 25470". The London Gazette (英語). 15 May 1885. p. 2214.
- ^ "No. 25541". The London Gazette (英語). 18 December 1885. p. 6131.
- ^ "No. 25223". The London Gazette (英語). 20 April 1883. p. 2111.
- ^ "No. 25346". The London Gazette (英語). 22 April 1884. p. 1811.
- ^ "No. 25442". The London Gazette (英語). 17 February 1885. p. 676.
- ^ "No. 25444". The London Gazette (英語). 20 February 1885. p. 756.
- ^ "No. 25446". The London Gazette (英語). 24 February 1885. p. 853.
- ^ "No. 25505". The London Gazette (Supplement) (英語). 25 August 1885. p. 4052.
- ^ "No. 25505". The London Gazette (Supplement) (英語). 25 August 1885. p. 4041.
- ^ "No. 25644". The London Gazette (英語). 12 November 1886. p. 5450.
- ^ "No. 25947". The London Gazette (英語). 21 June 1889. p. 3352.
- ^ "No. 26407". The London Gazette (英語). 30 May 1893. p. 3121.
- ^ "No. 26317". The London Gazette (英語). 16 August 1892. p. 4658.
- ^ "No. 26683". The London Gazette (英語). 26 November 1895. p. 6674.
- ^ "No. 26917". The London Gazette (英語). 7 December 1897. p. 7349.
- ^ "No. 27174". The London Gazette (英語). 16 March 1900. pp. 1785–1787.
- ^ "No. 27282". The London Gazette (英語). 8 February 1901. p. 846.
- ^ Brown, Graham (1 September 2018). "Doors Open Day could be gateway to secure future for Angus landmark". The Courier (英語). 2022年3月21日閲覧。
- ^ a b c d e f Mosley, Charles, ed. (1999). Burke’s Peerage and Baronetage (英語). Vol. I (106th ed.). London: Burke's Peerage Limited. pp. 45–46. ISBN 2-940085-02-1。
関連図書
編集- "No. 25460". The London Gazette (英語). 10 April 1885. p. 1668.
- "No. 25462". The London Gazette (英語). 17 April 1885. p. 1740.
- "No. 25954". The London Gazette (英語). 16 July 1889. p. 3834.
外部リンク
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