テオドール・フェルストラーテ
テオドール・フェルストラーテ(Theodoor Verstraete、1850年1月5日 - 1907年1月8日)はベルギーの画家である。主にベルギー田園地域の風景や人々を描いた[1][2]。
テオドール・フェルストラーテ Theodoor Verstraete | |
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生誕 |
1850年1月5日 ベルギー, ヘント |
死没 |
1907年1月8日 ベルギー, アントウェルペン |
教育 | ヤコブ・ヤコブス |
著名な実績 | 画家 |
略歴
編集ヘントで生まれた。父親は劇場の楽団の指揮者で、母親は人気のある女優であった。1852年に家族はアントウェルペンに移り、その後ブリュッセルに移った。子供時代は音楽を学び、両親の巡業に同行した[3]。絵を描くことにも熱心で、1867年からアントウェルペンの美術学校で学び始め、版画も学んだ[2]。美術学校では風景画家のヤコブ・ヤコブス(Jacob Jacobs)に学び、同じ時期の学生にはエミール・クラウス(Emile Claus: 1849-1924) 、ジェフ・ランボー(Jef Lambeaux:1852-1908)らがいた。
1876年頃、はじめて アントウェルペンの展覧会に出展し、その後も展覧会への出展を続け1882年にパリの展覧会で選外佳作となり、 アントウェルペンでは金賞を受賞した。1878年にアカデミーでの修行を終えて、翌年から アントウェルペンに近いブラスカート(Brasschaat)に家を建てて移った[2]。この町を拠点に周辺地域の風景を描いた[4]。「ブラスカートの画家」と呼ばれ、多くの画家がフェルストラーテと共に作品を描き、フェルストラーテの指導を受けた。「ブラスカート派」と呼ばれる画家には、ヤン・フランシス・シモンス(Jan Frans Simons)、Frans Van Ballaer、Jules Guiette、エフェルト・ピーテルス(Evert Pieters)、Rosa Leigといった人々がいる。
1883年に官立サロンの運営に反対するグループによって「20人展」が設立され、フェルストラーテも設立時のメンバーとなるが、主要な他のメンバーに比べて画風は保守的であり、2年後にメンバーを辞めた[5]。1883年にPiet Verhaertらと伝統を維持することを主張する美術家グループ「Wees U Zelf」の共同設立者となり、このグループにはFrans Van Kuyck、ウジェーヌ・ヨールス、Edgard Farasyn、エミール・クラウスらが加わった[6]。1891年には「 De XIII(13人展)」の共同創立者になった。このグループは1899年まで存続し3回の展覧会を開いた[7]。
作品
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「切り株」
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「スコーレの春」(1894)
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「船を曳く人」
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「雨の後」
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「ビジリアに集まる人々」(c.1889)
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「野原の開墾」
参考文献
編集- ^ Theodoor Verstraete at the Netherlands Institute for Art History
- ^ a b c Paul Lambotte, 'Théodore Verstraete' at the Biographie Nationale de Belgique, Volume 26, p. 695
- ^ A.W. Sanders van Loo, Kunstkroniek, in: Dietsche Warande en Belfort year 1907, J.-E. Buschmann, Antwerp,1907, p. 171-176
- ^ Theodoor Verstraete at Jan Frans Simons vzw
- ^ Dorine Cardyn, 'Schilders in de Kempen rond de school van Kalmthout', in: Vlaanderen. Jaargang 28. Christelijk Vlaams Kunstenaarsverbond, Roeselare 1979, pp. 74–80
- ^ '350 jaar Koninklijke Academie voor Schone Kunsten Antwerpen: 1663–2013'; Contradicties, 2013 Museum, p. 242
- ^ Kunstkring XIII – Antwerpen (1891–1899)