ティルチラーパッリ包囲戦 (1741年)
ティルチラーパッリ包囲戦(英語:Siege of Tiruchirappalli)は、1741年1月から同年3月にかけて、ティルチラーパッリにおいてマラーター同盟のボーンスレー家の当主ラグージー・ボーンスレーとカルナータカ太守の一族チャンダー・サーヒブとの間に勃発した戦い。
ティルチラーパッリ包囲戦 Siege of Tiruchirappalli | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ボーンスレー家 | カルナータカ太守 | ||||||
指揮官 | |||||||
ラグージー・ボーンスレー | チャンダー・サーヒブ | ||||||
戦力 | |||||||
40,000 - 50,000人[1] |
騎兵5,000人 歩兵10,000人[1] |
戦闘に至る経緯
編集1740年4月、マラーター王国の要請を受けたボーンスレー家当主ラグージー・ボーンスレーはカルナータカ地方政権の領土に攻め入り、5月20日に首都アルコット近郊で太守ドースト・アリー・ハーンの軍勢を破り、アルコットを占領した[2]。
そののち、太守の息子サフダル・アリー・ハーンと娘婿チャンダー・サーヒブとの間で太守位をめぐる争いが起き、前者がラグージー・ボーンスレーの援助を受け、11月16日に太守となった[2][3]。
一方、敗れたチャンダー・サーヒブはアルコットから南のティルチラーパッリへと逃げ、ティルチラーパッリ城に籠城し、ラグージー・ボーンスレーはタンジャーヴール・マラーター王国の支援も得て彼を追った。
包囲戦
編集1741年1月16日、ラグージー・ボーンスレー率いるマラーター軍はティルチラーパッリを包囲し、チャンダー・サーヒブも籠城の構えを崩すことはなかった[1]。
チャンダー・サーヒブはフランスポンディシェリーに家族を避難させていたが、自身はマラーター側によるティルチラーパッリの綿密な封鎖により、食糧などの物資不足に苦しむこととなった[1]。
その後の経過
編集チャンダー・サーヒブは捕えられたのち、マラーター王国の首都サーターラーへと送還され、ラグージー・ボーンスレーはもまたナーグプルへと帰還した[3]。
その後、ティルチラーパッリを統治するため、マラーター本国からムラーリー・ラーオ・ゴールパデーが送られ、この地を治めることとなった。
1742年10月3日、太守となっていたサフダル・アリー・ハーンは暗殺され、その息子サアーダトゥッラー・ハーン2世が即位したが、デカン地方のニザーム王国がこれに介入し、1743年にマラーターの支配していたティルチラーパッリに兵が送られた(ティルチラーパッリ包囲戦)[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 辛島昇『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。