チロル城(チロルじょう、イタリア語: Castel Tirolo, ドイツ語: Schloss Tirol)は、イタリアボルツァーノ県(南チロル)のティローロ(ティロール、チロル)というコムーネにある城。自治体はブルグラヴィヤート 地方メラーノ(メラン)に属する。

チロル城
: Castel Tirolo
: Castel Tirolo
イタリアの旗 イタリア ボルツァーノ県
チロル地方ティローロ
村から眺めたチロル城
座標北緯46度41分38.9秒 東経11度8分41.3秒 / 北緯46.694139度 東経11.144806度 / 46.694139; 11.144806
施設情報
一般公開南チロル歴史博物館
現況保存建造物、博物館
歴史
建設1100年以前
建設者チロル伯

チロル伯はこの地から勢力を拡大し、現在のイタリアとオーストリアにまたがるチロル伯領(英語)という一国を築いた(その領域がチロル地方の名で呼ばれる)。15世紀になって交通の便がよいインスブルックに政治の中心が移動するまでは、チロル城は国主の居城であった。2003年、この城に南チロル歴史博物館が設置された。

歴史

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城のある小高い丘には発掘により先史時代から人が住み、キリスト教伝来のかなり早い時期の遺構もある。中世の墓地も見つかった[1]。最初の城塞が建てられたのは1100年よりも前である。その後1139年から1140年に増築されたと記録に残っている。城の塔(天守)もこの時代のものであった。13世紀に再度、ケルンテン公マインハルトの時代に増改築を加え、公爵の孫マルガレーテ・フォン・ティロル公女は、ルクセンブルク家ルートヴィヒ4世に攻められてこの城に籠城した。1420年、ハプスブルク家フリードリヒ4世 (オーストリア公)ブレンナー峠の北、インスブルックに移ってから代々の統治者がこの城を顧みることはなくなった。

近代を経て19世紀に入るとあちこちが崩れて険しい谷底に落ち、石材を取るために売却までされて荒廃の進んだ城を修繕、ネオゴシック様式で改築したのが建築家フリードリヒ・フォン・シュミット英語版であり、このとき城の塔(天守)も高くなった(1904年)。

また、美術史の観点から見ると城の礼拝堂内のフレスコ画が特に関心を引くものである。ロマネスク様式の門は2つあり、大理石の彫刻で伝説の生き物や歴史的な主題を表し、幾何学的な装飾と組み合わせてある[2]

城は1980年代の初頭から資料館に転用して公開が始まり、2003年には南チロル歴史博物館ドイツ語版ウィキデータとして開館した。城に隣接する猛禽類の飼育施設では、鷹狩の訓練を行う[3]

関連項目

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脚注

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  1. ^ Mras, Gertud (2004). “Die Grabplatte der Lobecena aus der frühmittelalterlichen Kirche auf dem Burghügel von Schloss Tirol aus epigraphischer Sicht” (ドイツ語). Tiroler Heimat 68: 5–10. 仮題「碑文から考察:チロル城の丘にある中世初期教会墓地のロベセナの墓碑」
  2. ^ Seebach, Gerhard (1995). “Die romanischen Portale auf Burg Tirol. Eine bauhistorische Untersuchung” (ドイツ語). Eines Fürsten Traum. Dorf Tirol. p. 79–93  『チロル城シュタムス修道院』展の展示図録。
  3. ^ Pflegezentrum”. Greifvogel-Pflugschau. 13 August 2019閲覧。

外部リンク

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