チャールズ・ロバート・アシュビー
チャールズ・ロバート・アシュビー(Charles Robert Ashbee、1863年5月17日 - 1942年5月23日)はイギリスの建築家、工芸家、著作家である。芸術と工芸の共同体、「ギルド・オブ・ハンディクラフト」の創設者である。
チャールズ・ロバート・アシュビー Charles Robert Ashbee | |
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ウィリアム・ストラングによる肖像画 | |
生誕 |
1863年5月17日 イギリス,アイズルワース |
死没 |
1942年5月23日 イギリス,セブノークス |
略歴
編集ロンドン西部のハウンズロー・ロンドンのアイズルワースで生まれた。父親のヘンリー・スペンサー・アシュビーは裕福な実業家、書籍収集家として知られ、匿名の『我が秘密の生涯』の著者と推定されている人物で、母親はユダヤ系ドイツ人の商人の娘で、父親は母方の祖父の商社のロンドン支店長を務めていた。バークシャーのウェリントン・カレッジ(Wellington College)やケンブリッジ大学のキングス・カレッジで学んだ後、1882年から教会の建築を専門とする建築家のジョージ・フレデリック・ボドリーのもとで修業した。
1888年にロンドンに工芸学校、Guild and School of Handicraftを設立し、同じ年に工芸家たちと設立した共同体、ギルド・オブ・ハンディクラフトは成功し、1900年には、ロンドンのギルドで働く職人は150人を超えた。金属加工場も作られ、銀食器や宝飾品なども制作された。1898年に建築家のベイリー・スコットに協力し、ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの邸の家具を制作した。1900年にギルドの製品はウィーン分離派の展覧会に展示された。1896年にはアメリカを訪れ、フランク・ロイド・ライトと知り合い友人となっている。
1902年にギルドをグロスタシャーのチッピング・カムデンに移した。ギルドの運営を1908年まで行った。
第一次世界大戦中はカイロ大学でイギリス文学を教え、1918年から1922年まで、イギリス委任統治領パレスチナの行政のアドバイザーやエルサレムの古代建築物保存のために働いた。イギリスに帰国後は、ケント州セブノークスで過ごし、建築家として働いた。
作品
編集-
銀器
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宝飾品
-
「モロー博士の島」の挿絵
著作
編集- A Book of Cottages, 1906
- Little Houses, 1906
- Craftsmanship in Competitive Industry,1908
- Modern English Silverwork, 1909
外部リンク
編集- Arts, Crafts & Socialism
- Design for the Villa San Giorgio, Taormina, Sicily, for Colonel T.B. Shaw-Hellier: perspectives and plans – Royal Institute of British Architects (RIBA)
- 38 and 39 Cheyne Walk, London – Royal Institute of British Architects (RIBA)
- Guild of Handicraft in Chipping Campden
- Endeavours towards an Arts & Crafts Utopia
- C. R. Ashbee Biography
- M. H. Baillie-Scott Furniture for the Darmstadt Palace of the Grand Duke of Hesse – Monatsheft “Studio international”, (1899) Volume: 14–16 Seite 91 ff