チェスキーナ・永江洋子
チェスキーナ・永江 洋子(チェスキーナ・ながえ ようこ,Yoko Nagae Ceschina、1932年4月5日[3] - 2015年1月10日[4][5][6])は、日本・イタリアのハープ奏者。音楽家のパトロンとしての活動でも知られた[1][4][5][6]。
チェスキーナ・永江 洋子 | |
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2014年 | |
基本情報 | |
別名 | チェスキーナ洋子 |
生誕 | 1932年4月5日 |
出身地 | 日本 熊本県玉名郡玉東町 |
死没 |
2015年1月10日(82歳没) イタリア ローマ |
学歴 |
東京芸術大学卒業[1][2] ヴェネツィア音楽院卒業[3] |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ハープ奏者、篤志家 |
担当楽器 | ハープ |
共同作業者 | 東京交響楽団 |
熊本県玉名郡玉東町出身[7]。熊本県立第一高等女学校で学んだ後、1952年に熊本大学教育学部附属小学校の代用教員となる[3]。1954年、東京芸術大学のハープ科に入学[3]。その後、同大学を休学し、東京交響楽団でハープ奏者として活動する[6]。
1960年からイタリアのヴェネツィアに留学し、1977年には資産家のレンツォ・チェスキーナと結婚[3]。1982年に夫が死去した後、裁判を経て300億円の遺産を相続し、篤志家として活動するようになる[6]。NHK交響楽団のヨーロッパツアー、米国ツアーのサポート、ニューヨーク・フィルハーモニックの北朝鮮公演に多大な貢献をした[2]。また、ロシア・マリインスキー新劇場の建設に巨額の寄付を行った[2][4][6]。2013年には熊本県近代文化功労者となり[3][7]、2014年にはロシアの友好勲章を受章した[6]。
2015年1月10日、ローマの病院で死去[2][4]。同年8月5日、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮、東京交響楽団の追悼演奏会がサントリーホールにて行われ、チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』が演奏された[2][8]。
著書
編集- ヴェネツィア私のシンデレラ物語(チェスキーナ洋子名義、草思社、2003年、ISBN 4-7942-1199-6)
出典
編集- ^ a b 針ヶ谷郁 (2010年7月). “チェスキーナ洋子 クラシック音楽界の足長おばさん”. よみタイム. 2017年5月30日閲覧。
- ^ a b c d e “チェスキーナ洋子 メモリアルコンサート”. 東京交響楽団 (2015年). 2017年5月30日閲覧。
- ^ a b c d e f 『熊本県近代文化功労者顕彰式及び「くまもと教育の日」県民フォーラムを開催します!』(PDF)(プレスリリース)熊本県教育委員会、2013年11月1日 。2017年5月30日閲覧。
- ^ a b c d “チェスキーナ・永江洋子さん死去 伊在住のハープ奏者”. 朝日新聞デジタル. (2015年1月13日). オリジナルの2015年8月2日時点におけるアーカイブ。 2017年5月30日閲覧。
- ^ a b “チェスキーナ・永江洋子さん死去 イタリアで音楽家ら支援”. 47NEWS. 共同通信. (2015年1月12日) 2017年5月30日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c d e f 鈴木琢磨 (2015年1月22日). “追悼、チェスキーナ永江洋子さん 戦争でなく文化の力信じ”. 毎日新聞 2017年5月30日閲覧。
- ^ a b “県近代文化功労者に故安場保和氏ら3人 県教委”. 47NEWS. (2013年9月12日) 2017年5月30日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “ワレリー・ゲルギエフ&東京交響楽団、8月にチェスキーナ洋子 メモリアルコンサートを開催!”. CDJournal. (2015年6月5日) 2017年5月30日閲覧。