タールディー・ベグ
生涯
編集1555年、スール朝との戦いで功績であったバイラム・ハーンが皇太子アクバルの後見人となり、1556年にアクバルが即位して彼が摂政に登用されると、デリーとアーグラの総督あったタールディー・ベグはこれに反対した[1]。
同年、スール朝の残党であるヘームーが挙兵し、10月にデリーに軍勢が向けられると(デリーの戦い)、タールディー・ベグは一戦も交えずにデリーを放棄して逃げ、デリーは占領された[2]。
その後、タールディー・ベグはパンジャーブに遠征していたアクバルとバイラム・ハーンと合流したが、ライバルであるバイラム・ハーンはデリーを何の抵抗もなく明け渡したとして、彼を処刑した[2]。
タールディー・ベグの処刑により帝国軍は士気を取り戻したが[2]、この処刑はバイラム・ハーンとほかのライバルたちとの間で尾を引く形として残った[3]。
脚注
編集参考文献
編集- アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。