タチュ(? - ?)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ジャライル部の出身。『元史』などの漢文史料では塔出(tǎchū)と記される。

概要

編集

タチュはジャライル部の出身で、 父のジャライルタイ・コルチチンギス・カンの時代から第4代皇帝モンケの治世まで活躍した歴戦の勇将で、特にモンケの治世に第4次・第5次高麗侵攻の司令官を務めたことで知られる[1]

ジャライルタイの息子タチュは功臣の息子であることから1280年(至元17年)に昭勇大将軍・東京路総管府ダルガチに、翌1281年(至元18年)には昭毅大将軍・開元等路宣慰使、次いで遼東宣慰使に任じられた。1285年(至元22年)にはクビライの下に入観したが、この時タチュの応対が優れていたため、クビライは喜んで龍虎衛上将軍・東京等路行中書省右丞に改めて任じたという[2]

1287年(至元24年)、クビライ・カーンの政策に不満を抱いたオッチギン家のナヤンが叛乱を起こすと、タチュはいち早くこれを察知してクビライに報告した。一方、ナヤンに呼応して挙兵したカサル家のシクドゥル率いる部隊はナヤン本隊とは別に遼寧平原に展開しており、タチュは1万の軍勢を率いて王子アヤチ率いるシクドゥル討伐軍に属するよう命じられた[3]

これに対しシクドゥルはナヤンの叛乱に呼応して出兵した女直人との連動によってアヤチ率いる部隊を一時敗退させ、アヤチは危うく捕らえかけられたが、タチュらの奮戦によってアヤチは遼河を渡って逃れることができた[4]。この時、タチュは自ら前線に出て敵将のテグデイ(帖古歹)を射抜き、アヤチらの退却を助けたという。アヤチ軍が懿州に退却すると、城に残っていた老人子供らが「宣慰公(タチュ)がいなければ、我々の家族は生きて帰ることはできなかったでしょう」と感謝したが、タチュは「今日の事は、上は皇帝の洪福により、下は将士の奮戦によってなしえたことである。我に何の功績があろうか」と述べたという[5]。ちょうど同時期、クピライ自ら率いる本隊がナヤン軍に完勝を収め、首謀者たるナヤンが処刑されたことで反乱は急速に収まっていったが、タチュは引き続き反乱軍残党の討伐に従事した[6]

1291年(至元26年)には蒙古軍万戸に任命され、再び建州にてカダアン軍を破った。翌1292年(至元27年)、カダアンは高麗に侵攻したため、再び兵を率いてこれを討伐した。ナヤン・カダアンの乱鎮圧の功績により晩年のタチュは遼陽行省平章政事に任じられ、その後在職のまま亡くなった。死後、息子のダラン・テムルが跡を継いで遼陽行省参知政事に任じられた[7]

脚注

編集
  1. ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「塔出、蒙古札剌児氏。父札剌台、歴事太祖・憲宗。歳甲寅、奉旨伐高麗、命桑吉・忽剌出諸王並聴節制。其年、破高麗連城、挙国遁入海島。己未正月、高麗計窮、遂内附、札剌台之功居多」
  2. ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「塔出以勲臣子、至元十七年授昭勇大将軍・東京路総管府達魯花赤。十八年、召見、賜鈔六十錠、旌其廉勤。陞昭毅大将軍・開元等路宣慰使、改遼東宣慰使。二十二年、入覲、帝慰労久之、且問曰『太祖命爾父札剌台聖旨、爾能記否』。塔出応対周旋、不踰礼節、帝嘉之、賜以玉帯・弓矢、拜龍虎衛上将軍・東京等路行中書省右丞。復授遼東道宣慰使」
  3. ^ 『元史』巻14,「[至元二十四年六月]壬申、発諸衛軍万人・蒙古軍千人戍豪・懿州。諸王失都児所部鉄哥率其党取咸平府、渡遼、欲劫取豪・懿州、守臣以乏軍求援、勅以北京戍軍千人赴之」
  4. ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「塔出探知乃顔謀叛、遣人馳駅上聞、有旨、命領軍一万、与皇子愛也赤同力備禦。女直・水達達官民与乃顔連結、塔出遂棄妻子、与麾下十二騎直抵建州。距咸平千五百里、与乃顔党太撒抜都児等合戦、両中流矢。継知党帖哥・抄児赤等欲襲皇子愛也赤、以数十人退戦千餘人、扈従皇子渡遼水」
  5. ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「乃顔軍来襲、塔出転闘而前、射其酋帖古歹、中其口、鏃出於項、堕馬死、追兵乃退。遂軍懿州、州老幼千餘人、焚香羅拜道傍、泣曰『非宣慰公、吾属無遺種矣』。塔出曰『今日之事、上頼皇帝洪福、下頼将士之力、吾何功焉』」
  6. ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「至遼西羆山北小龍泊、得叛酋史禿林台・盧全等納款書、期而不至、塔出即遣将討擒之、又獲其党王賽哥。復与曲迭児大王等戦、破之、将士欲俘掠、塔出一切禁止。与僉院漢爪・監司脱脱台追乃顔餘党、北至金山、戦捷。帝嘉其功、召賜黄金・珠璣・錦衣・弓矢・鞍勒」
  7. ^ 『元史』巻133列伝20塔出伝,「二十八年、賜明珠虎符、充蒙古軍万戸。是歳、復領軍討哈丹於女直、還攻建州、逐阿海投江死。明年、哈丹渉海南、襲高麗、塔出復進兵討之。入朝、世祖嘉其功、眷遇弥渥、復賜珍珠上服、拜栄禄大夫・遼陽等処行中書省平章政事、兼蒙古軍万戸、卒于位。子答蘭帖木児、中奉大夫・遼陽省参知政事」

参考文献

編集
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 吉野正史「ナヤンの乱における元朝軍の陣容」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第4分冊、2008年
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱:二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
  • 元史』巻133列伝20