ソールドアウト (企業)
株式会社ソールドアウトは、東京都目黒区上目黒にかつて存在した株式会社[1]。
種類 | 株式会社 |
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機関設計 | 監査役設置会社[1] |
本社所在地 |
![]() 〒153-0051[1] 東京都目黒区上目黒3-16-1[1] |
設立 | 1986年(昭和61年)4月18日[1] |
事業内容 | テレビ番組、ラジオ番組、ビデオ、レコード、コマーシャル、映画、及び舞台の企画並びに制作等[1] |
代表者 | 佐藤光夫[1] |
資本金 | 1000万円[1] |
発行済株式総数 | 200株[1] |
関係する人物 | 秋元康、堤幸彦 |
特記事項:2002年12月3日付で解散[1]。 |
作詞家の秋元康が映画監督の堤幸彦と共に設立し、運営していた企画制作会社である[2]。設立当時、秋元は27歳、堤は30歳だった。
関係する人物
編集- 堤幸彦は、秋元と共にソールドアウトを設立し、1991年、秋元が企画した映画『HOMELESS』、映画『![ai-ou]』で監督を務めた。1993年には、秋元が企画した『中指姫 俺たちゃどうなる?』の監督を務めたほか、秋元が企画原案を担当したテレビドラマ『ポケベルが鳴らなくて』で演出を務めている。その後同社を離れ、オフィスクレッシェンドに所属したが、その後も1995年、秋元が企画、監修を務めた『クリスマスキス〜イブに逢いましょう』で監督、演出を務め、1996年、秋元が企画、監修を務めた『ハンサムマン』で監督を務めている。堤との関係は現在も続いており、2015年、秋元が企画した『AKBホラーナイト アドレナリンの夜』主演女優オーディションの審査員を務めたほか、2023年に上映された同ドラマの朗読劇の総合演出を務めている[4]。
- オフィスクレッシェンド代表取締役の長坂信人は、アメリカの大学に在学中の1982年頃、ひょんなきっかけでロサンゼルスで秋元康に出会う[5]。1989年、ソールドアウトに入社し、『HOMELESS』でプロデューサーとしてデビュー[5]。ソールドアウトには1994年まで所属し、同社のクリエイティブ部隊が独立する形で、オフィスクレッシェンドを設立した[5][6]。秋元からは「自走しろ」「おまえが社長をやれ」と言われたと述べている[5][3]。社長に就任直後は、「とにかく最初は社長業は何をすればよいのか」がわからず、「当時は会社にブランド力がなく秋元さん頼みの状況」だった。「そんな折、秋元さんからNHKの15分程度のレギュラー番組の仕事を頂きました。これがなければ今の会社はなかったと思います」と話し、秋元への感謝を述べている[5]。
- オフィスクレッシェンド副社長の神康幸はソールドアウトに参加し、長坂と共同で1994年にオフィスクレッシェンドを設立した[6]。
- 作曲家の辻陽は、ソールドアウトで作・編曲家として活動し、『HOMELESS』のサウンドトラックを手掛けた。
- 脚本家の遠藤察男は、かつてソールドアウトに所属し、脚本家や作詞家として活躍していた。遠藤が手掛けた脚本作品の演出は、堤幸彦であることが多かった。
- 放送作家の井辺清は、かつてソールドアウトに所属し、遠藤とともに音楽バラエティー番組『華麗にAh!so』の構成を手掛けた。
脚注
編集注釈
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出典
編集- ^ a b c d e f g h i j 2015年1月29日時点の法人登記記録による。
- ^ a b “秋元康がやっていた「うんこや」という店”. AERAdot. (2015年1月27日). 2025年2月5日閲覧。
- ^ a b “ヒット映画を生みだす「人の絆」”. QONジャーナル. 2025年2月5日閲覧。
- ^ “秋元康企画・堤幸彦総合演出「アドレナリンの夜」男性出演者57名がジャンルをまたぎ大集結”. ステージナタリー (2023年8月26日). 2025年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e “儲けたいとか有名になりたいということではなく、エンターテイメントとして、言葉が通じなくても世界中の人達に評価してもらえるステージで作品を作りたい”. Startup Magazine (2013年5月26日). 2025年2月5日閲覧。
- ^ a b “数多くの話題作を送り出すオフィスクレッシェンドが主催する、映像アワードの展望とは…?!同社副社長・神康幸さんに聞く”. Creative Village (2017年5月2日). 2025年2月5日閲覧。