スマラセマラとも呼ばれる。アラビア語: سمارا‎、英語Semara 又は Smara)は、西サハラモロッコおよび現地独立勢力のサハラ・アラブ民主共和国ポリサリオ戦線)が領有権を主張)の内陸部にある都市。モロッコの実効支配下にある。

スマラ(セマラ)
Smara(Semara)
سمارا
OCHAマップに基づく (地図)
OCHAマップに基づく (地図)
位置
の位置図
位置
スマラの位置(西サハラ内)
スマラ
スマラ
スマラ (西サハラ)
スマラの位置(アフリカ内)
スマラ
スマラ
スマラ (アフリカ)
座標 : 北緯26度44分22秒 西経11度40分13秒 / 北緯26.73944度 西経11.67028度 / 26.73944; -11.67028
歴史
建設 1869年
行政
西サハラの旗 サハラ・アラブ民主共和国
 実効支配 モロッコの旗 モロッコ
 地方 ラユーン=サキア・エル・ハムラ地方
 州 スマラ州英語版
 市 スマラ(セマラ)
人口
人口 2014年現在)
  市域 57,035人
その他
等時帯 CET (UTC+1)

人口は2014年モロッコ国勢調査で57,035人[1]

歴史

編集

スペイン領時代

編集

この地域最大の都市であるスマラは1869年に旅行者・隊商のオアシスとしてサギア・エル・ハムラに作られた。また、都市の中央には1830年に築かれた石造の砦、ザウイイ・マーライン(Zawiy Maalainin)があり、1912年まで砦としてモスクを囲んでいた。このモスクは現在もその一部が残っている。スマラは、1902年シャイフであるマ・アル・アイナイン(Ma al-'Aynayn)によりスペイン領サハラの首都となり、同時に宗教の中心地にもなった。スマラの位置が、人口の少ないサハラ砂漠キャラバンによるサハラ交易の中心地になるだろうという予測もあり、スマラを首都にするための拡張工事がスルタン(君主)のハサン一世(Hassan I)により送られてきた職工や住民によって行われた。同年、マ・アル・アイナインはスマラは聖なる都市であると宣言し、スマラに移住した。彼が作った様々な建物の一つに、イスラム教図書館があり、この都市は宗教学習の中心地となった。

1904年、マ・アル・アイナインはイマーム(指導者)を自称し、サハラへの支配を強めようとするフランスとのジハード聖戦)を開始した。この戦役でマ・アル・アイナインはフランス軍に敗れ、図書館も破壊された。スマラは後にスペインに奪回されたが、1934年サハラ人のスペインに対する反乱によって再び破壊された。

1975年以後

編集

1975年、モロッコは、スペインの撤退にあわせ、マドリード協定(Madrid Accords)に基づき、サギア・エル・ハムラを掌握した。 1976年ポリサリオ戦線が保持していたスマラを、モロッコ軍が制圧した。 アルジェリアティンドゥフ付近には、現在でもサハラ人(Sahrawi)難民キャンプがある。サハラ・アラブ民主共和国政権がある4つのキャンプのうちの1つにはスマラにちなんで名前がつけられているものがある[2]

現在、街は、モロッコ政府が南部諸州(Southern Provinces)と呼ばれる地域の一部として管理していて、砂の壁によって、囲まれている。

ヴォーシャンジュのスマラ訪問

編集

ヨーロッパ人にとって謎であったマ・アル・アイナインの支配するスマラに到達することが、20世紀初頭の作家でロマン主義者であったヴォーシャンジュの目指したことであった。これは当時のヨーロッパではスマラについて、「旅人の休息地で城壁に囲まれている、砂漠の都市。崩壊しつつあるらしい」程度の情報しか知られておらず、位置もよく分かっていなかった。このためミシェル・ヴォーシャンジュ(Michel Vieuchange)はその姿を目に焼き付けておこうとしてスマラへの旅行を計画した。ミシェル・ヴォーシャンジュの旅行記に書かれた1930年の旅は苦痛に満ちたものであった。現地の部族の男やイスラム教徒の女やアメリカ人のビジネスマンに変装して、反乱軍が支配するサハラのさまざまな土地を通っていくのである。ミシェル・ヴォーシャンジュはスマラからの帰途病死した。彼の旅行記は彼の死後の1932年、弟のジャン・ヴォーシャンジュによって「スマラ 禁断の都市」(Smara : carnets de route d'un fou de désert) (ISBN 0-88001-146-7)という題で出版された。

脚注

編集
  1. ^ Western Sahara”. Citypopulation.de (2015年4月1日). 2017年5月6日閲覧。
  2. ^ 難民問題を扱う非営利団体ARC(American Refugee Committee)によれば、ティンドゥーフから30kmほど離れたアシュワードキャンプに、ほぼ39,000人のサハラ人難民が居る。同じく5kmほど離れたラーユーンキャンプに推計39,000人。50kmほど離れたスマラキャンプには39,000人を超える避難民が居る。1979年から数え、避難民は4倍になる。

参考図書

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集

座標: 北緯26度44分22秒 西経11度40分13秒 / 北緯26.73944度 西経11.67028度 / 26.73944; -11.67028