セドニウ
セドニウ(ウクライナ語: Седнів)はウクライナ・チェルニーヒウ州チェルニーヒウ地区(ru)の都市型集落である。また、同地の都市型集落議会[注 1]の中心自治体でもある。人口は2001年の時点で1353人[1]、2011年に1175人[2]。
セドニウ Седнів | |
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座標 : 北緯51度38分36秒 東経31度34分08秒 / 北緯51.64333度 東経31.56889度 | |
歴史 | |
史料初出 | 1068年 |
都市型集落 | 1959年 |
行政 | |
国 | ウクライナ |
州 | チェルニーヒウ州 |
地区 | チェルニーヒウ地区 |
都市型集落 | セドニウ |
地理 | |
面積 | |
都市型集落域 | 3.86 km2 |
人口 | |
人口 | (2011現在) |
都市型集落域 | 1175人 |
その他 | |
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) |
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) |
市外局番 | +380 462 |
ナンバープレート | CB, IВ / 25 |
位置図 |
地理
編集歴史
編集→「スノフスク」も参照
セドニウには、10世紀前後の315基からなるクルガン群があり、19世紀のD.サモクヴァソフ(ru)の調査では、槍、斧、矢などの武具が発掘された[3]。8世紀から9世紀にかけて、セドニウにはスラヴ人の集落が建設されていた。すなわち、キエフ・ルーシ期にスノフスクと呼ばれた都市要塞である。また、1068年にはスノフスク付近で、チェルニゴフ公スヴャトスラフが3千人の軍勢を率い、1万2千人のポロヴェツ族の軍勢を撃破している(スノフ川の戦い)。12世紀から13世紀にはチェルニゴフ公国領であったが、モンゴルのルーシ侵攻渦中の1239年に、モンゴル帝国軍によって破壊された。
1350年代にセドニウはリトアニア大公国領に組み込まれた。1648年から1781年にかけて、セドニウはリゾグプ家(ru)の世襲領(ヴォチナ(ru))となっていた。
1917年、セドニウはウクライナ人民共和国の一部となった。翌1918年3月18日にドイツ軍に占拠された。また1919年1月10日には、ウクライナ人民共和国軍と、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国軍との間で戦闘が起こっている。
1932年から1959年にかけて、セドニウは村(セロ)に位置づけられていたが、1959年に都市型集落に昇格した。セドニウには中世の都市の土塁の遺構が残されており、2001年にはウクライナ歴史都市一覧[注 2]の1つに認定された[4]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 「都市型集落議会」はロシア語: Поселковый советの直訳による。詳しくはru:Поселковый советを参照されたし。
- ^ 「ウクライナ歴史都市一覧」は、ロシア語: Список исторических населённых мест Украиныの意訳・重訳による。詳しくはru:Список исторических населённых мест Украиныを参照されたし。
出典
編集- ^ смт Седнів Чернігівська область, Чернігівський район // Офіційний портал Верховної Ради України
- ^ Державний комітет статистики України. Чисельність наявного населення України на 1 січня 2011 року, Київ-2011 Archived 2012年10月10日, at the Wayback Machine. (doc)
- ^ Самоквасов Д. Я. Могилы русской земли. М. 1908. С. 201.
- ^ Кабинета Министров Украины от 26 июля 2001 № 878 «Об утверждении Списка исторических населённых мест Украины»