ジョン・フランシス・リゴー
ジョン・フランシス・リゴー(John Francis Rigaud、1742年5月18日 - 1810年12月6日)はフランスからスイスに逃れたユグノーの家族を出自とする画家で、イタリアで学んだ後、29歳でイギリスに移り、その後はイギリスで歴史画家、肖像画家として活動した。
ジョン・フランシス・リゴー John Francis Rigaud | |
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George Dance (the younger)による肖像画 | |
生誕 |
1742年5月18日 イタリア,トリノ |
死没 |
1810年12月6日 イギリス,Great Packington |
略歴
編集トリノで生まれた。ユグノーの商人の家系で祖父母が1685年のフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令の破棄)でリヨンからスイスのジュネーブに亡命した商人の家族の出身である[1]。兄のジェームズ・スティーブン・リゴー(James Stephen Rigaud:1726–1814)はロンドン、リッチモンドの王立天文台で働き、甥のスティーブン・ピーター・リゴー(Stephen Peter Rigaud)はオクスフォード大学の天文学のサヴィル教授職(Savilian Professor of Astronomy)に就いた人物である。
幼いころから絵の才能を示し、サルデーニャ王国の宮廷画家のクラウディオ・フランチェスコ・ボーモン(Claudio Francesco Beaumont)に学んだ。フィレンツェやボローニャへ修行の旅をして、1766年にボローニャの美術アカデミー(Accademia Clementina)の会員となった。1768年に再びイタリア各地を修行しローマに滞在し、ローマではスウェーデン出身の彫刻家、ユーハン・トービアス・セルゲルやアイルランドの画家ジェームズ・バリーと友人になった。バリーとイタリアを旅した後、パリを訪れ1771年12月にロンドンに移った。1772年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に作品を出展し、その年、アカデミーの準会員に選ばれた[1]。
ロイヤル・アカデミーの展覧会に1772年から1815年の間に、合計155点の作品を出展し[2]、有力者の邸宅の装飾画も描いた。歴史画も描いたが肖像画家としての評価が高い。1782年にアカデミーの正会員に選ばれた。1795年にスウェーデン王、グスタフ4世の宮廷画家に任じられ、スウェーデン王立美術院の会員にも選ばれた[1]。
作品
編集-
若き日のネルソン提督 (1781)
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ロバート・マン(海軍軍人)
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サムソンとデリラ (c.1784)
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1785年のイギリス女性(Letitia Ann Sage)が初めて同乗した気球飛行
脚注
編集参考文献
編集- Lionel Henry Cust, Martin Myrone: John Francis Rigaud. In: George Smith, Leslie Stephen, Robert Blake, Christine S. Nicholls, Edgar T. Williams (Hrsg.): Dictionary of National Biography. Band 48: Reilly–Robins. Smith & Elder u. a., London 1896