ジョン・フェイン (第10代ウェストモーランド伯爵)
第10代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェイン(英: John Fane, 10th Earl of Westmorland、1759年6月1日 - 1841年12月15日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官。
第10代ウェストモーランド伯爵 ジョン・フェイン John Fane, 10th Earl of Westmorland | |
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10代ウェストモーランド伯(1790年頃) | |
生年月日 | 1759年6月1日 |
没年月日 | 1841年12月15日 |
死没地 | イギリス、イースト・サセックス州、ブライトン |
出身校 | ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジ |
所属政党 | トーリー党 |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) 枢密顧問官 (PC) |
配偶者 |
(1) サラ・チャイルド (2) ジェイン・ソーンダース |
内閣 | 第1次小ピット内閣 |
在任期間 | 1789年10月24日 - 1794年 |
国王 | ジョージ3世 |
内閣 |
第1次小ピット内閣 アディントン内閣 第2次小ピット内閣 |
在任期間 | 1798年2月14日 - 1806年2月5日 |
国王 | ジョージ3世 |
内閣 |
第2次ポートランド内閣 パーシヴァル内閣 リヴァプール内閣 |
在任期間 | 1807年3月25日 - 1827年4月 |
国王 | ジョージ3世・ジョージ4世 |
経歴
編集第9代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインの長男[1][2][3]。ウェストミンスター・スクール、チャーターハウス・スクールを経てケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジで学び、1778年に修士号を取得[4]。ケンブリッジでは、後にクロイン主教となるウィリアム・ベネットが彼のチューターを務めたほか、ウィリアム・ピット(小ピット)と知己を得て終生の友人となった[2][3]。
1774年に父が死去し、第10代ウェストモーランド伯爵となる[1][5][3]。貴族院ではトーリー党に所属。
1789年1月、首相を務めていた小ピットによって第2代ウォルシンガム男爵トマス・ド・グレイとともに郵政大臣(Postmaster General; ロイヤルメール総裁)[6]に任じられた。同年10月には更迭された初代バッキンガム侯爵ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルの後任のアイルランド総督(アイルランド統監)[7]となり、同時に枢密顧問官[7]に列せられた。彼はカトリック解放に反対していたため、カトリック勢力との妥協を図る小ピットによって1794年に解任された[2]。なお総督在職中の1793年にガーター勲章[8]を授けられている。
1795年から1798年まで小ピットの下で主馬頭(Master of the Horse)[1][4][2][5][3]となり、1798年に王璽尚書[9]として入閣した。以後彼は、ホイッグ党の初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルが政権の座にあった1806年から1807年にかけての短い期間を除き、5人の首相ののべ6内閣(第1次小ピット内閣・アディントン内閣・第2次小ピット内閣・第2次ポートランド内閣[10]・パーシヴァル内閣・リヴァプール内閣)で30年近くにわたって王璽尚書を務めた[2][3]。
1841年にイースト・サセックス州ブライトンで死去し、ノーサンプトンシャー州アペソープに葬られた[4]。
家族
編集彼は生涯に二度結婚した。最初の妻は銀行家ロバート・チャイルドの一人娘であったサラ・アン・チャイルドで、1782年5月20日にスコットランドのダンフリーズシャー州グレトナ・グリーンで駆け落ち結婚した[1]。彼女はロバート・チャイルドの唯一の相続人で、後に遺産の大半は長女のサラ・ソフィア・フェインへ渡った[2]。サラとの間に以下の子供をもうけた。
- Burghersh卿ジョン・フェイン[11][12] (1784年 - 1859年) - 第11代ウェストモーランド伯爵、陸軍少将
- レディ・サラ・ソフィア・フェイン[11][12] (1785年 - 1867年) - 第5代ジャージー伯爵ジョージ・チャイルド=ヴィリアーズ夫人
- レディ・オーガスタ・フェイン[11][12] (1786年 - 1871年) - はじめ第2代ボーリンドン男爵ジョン・パーカー(後の初代モーリー伯爵)夫人、のちサー・アーサー・パジェット夫人
- レディ・マリア・フェイン[11][12] (1787年 - 1834年) - ダンカノン子爵ジョン・ポンソンビー(後の第4代ベスボロー伯爵)夫人
- 男子[12] (1789年)
- レディ・シャーロット・フェイン[12] (1793年 - 1822年)
サラと1793年11月9日に死別したのち、1800年3月24日に彼は医学博士リチャード・ハック=ソーンダースの娘であるジェイン・ソーンダースと結婚した[1][3]。ジェインとの間に以下の子供をもうけた。
出典
編集- ^ a b c d e Lundy, Darryl. “John Fane, 10th Earl of Westmorland” (英語). thepeerage.com. 2011年2月22日閲覧。
- ^ a b c d e f Bayne, Ronald (1889). "FANE, JOHN, tenth Earl of Westmorland (1759-1841)". In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 18. London: Smith, Elder & Co. p. 176. 2011年2月22日閲覧。
- ^ a b c d e f “OBITUARY. - The Earl of Westmorland”. The Gentleman's Magazine (London: F. Jefferies) 17: 207-208. (Feb 1842) 2011年2月22日閲覧。.
- ^ a b c "WESTMORLAND, JOHN (FANE), EARL OF. (WSTT776JF)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ a b Doyle, James William Edmund [in 英語], ed. (1886). "John Fane III.". The official baronage of England, showing the succession, dignities, and offices of every peer from 1066 to 1885 (英語). Vol. 3. London: Longmans. pp. 643–644. 2011年2月22日閲覧。
- ^ "No. 13130". The London Gazette (英語). 8 September 1789. p. 589. 2011年2月22日閲覧。
- ^ a b "No. 13140". The London Gazette (英語). 13 October 1789. p. 653. 2011年2月22日閲覧。
- ^ "No. 13537". The London Gazette (英語). 11 June 1793. p. 490. 2011年2月22日閲覧。
- ^ "No. 14091". The London Gazette (英語). 13 February 1798. p. 138. 2011年2月22日閲覧。
- ^ "No. 16014". The London Gazette (英語). 28 March 1807. p. 393. 2011年2月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Burke, Bernard, Sir [in 英語], ed. (1869). "WESTMORELAND, EARL OF". A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire (英語) (31 ed.). London: Harrison. pp. 1177–1179. 2011年2月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j Lodge, Edmund, Sir [in 英語], ed. (1832). "WESTMORELAND, EARL OF (FANE)". The peerage of the British empire as at present existing (英語). London: Ibotson and Palmer. pp. 413–414. 2011年2月22日閲覧。
外部リンク
編集- Stephens, Alexander (1804). “EARL OF WESTMORELAND” Public Characters of 1803-1804. 6. London: Phillips, Richard, Sir. pp. 413-422
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